まあ、医学書を読んでみれば分かるが、どの人間も「神に作られた作品」なのだ。
朝、バナナを三、四本食って、牛乳を1リットル一気飲みして、風呂で休んでみれば分かる。
バナナは「知恵の木」、牛乳はナイルの賜物、風呂は死海文書、もはや統合失調症は「宇宙ジム所属」の病気であり、私は「スタンフォードジム所属」であるグレートな戦いであることを知るだろう。
医学書的には、バナナは「塩化クロム」であり、牛乳は「βアドレナリン」であり、風呂は「酸性プール」と表現される。
医学書に書いてあることを「宗教用語」に翻訳する必要がある。
また、腎臓の石が腹のリンパに逃げる時に、胃の栄養を狙って胃に逃げることがある。
しかし、平氏にとっては胃は「薬に弱い、守りの弱い城」なのである。
医者のお薬を否定できない理由はここにある。
しっかりと腹に石を逃した後に牛乳を飲もう。
日本国は「準白人国家」であり「バナナと牛乳」で熱か尿が止まる拒絶反応を示す人はほとんどいない。
しかし、アフリカ人の中には「バナナと牛乳のワンツー」を拒絶する人もいる。
これはマラリアと呼ばれる。
「蚊のせい」にされるのだ。
大事なのは「平氏の勢力が排泄と同時に弱っていく」ことを感じることであり、断末魔になればなるほど「窒息剤」を用いてくることを理解することだ。
安徳天皇入水の意味を知るだろう。
痩せて、身体中石だらけ、というのをクローン病と呼ぶ。
とにかく「痛い痛い」とのたうちまわり、「モルヒネと酸素ボンベ」に頼ることになる。
哲学により資金集めをして「周囲に必要とされない」のならばご家族様の話し合いで治療を中止される。
カリフォルニアとか一部の進んだ州では、ご家族様の話など聞かないほど予算があるが、オレゴンでは確実にご家族様優先だ。
日本国も、カリフォルニアほど進んではいない。
ロゼと大本山の親父さんはクローン病だ。
バナナと牛乳の差し入れも今はコロナで禁止されている。
つまり、治らない病気となっている。
私が栄養課と折衝して食生活の改善を訴えている。
私の妻もお二人の父と同じ暮らしだからだ。
源平の合戦に関しては、平氏は最終的に「のど」(アダムのリンゴ)を狙ってきている。
甲状腺ホルモンを跳ね上げて、発狂させてやろうと考えているのだ。
しかし、一度「ワンツー」を覚えてしまえば、もはや発狂はない。
平氏が「窒息剤で誤魔化してくる」のが分かる。
この窒息剤を、ビタミン剤で撃退したり、アミノサプリを飲んだりして、解消させなければならない。
問題は、「理解していれば2、3週間で治る」のが統合失調症である、というところに日本国の労働法は「病気休職6ヶ月」を認めていることである。
しかし、誰もが「スタンフォードジム所属」というほど強くはない。
「怠けている」「頑張れと言ってはならない」などと言われている。
お年寄りは「高度経済成長」も「バブル経済」も知り尽くしている。
つまり、バナナと牛乳は、「最初は不摂生が原因だった」統合失調症つまり、「老化」と向き合っている。
前立腺を狙われたくなければ、「酸化窒素」(アミノサプリに含まれる)を飲むしかない。
前立腺をやられたら、勃つ時に電気のようなものが流れてきて、勃っても「楽しくない」のである。
男性崇拝が宗教である以上、気をつけましょう。
また、行き場を失った石は最終的に「ガン化」を狙ってくる。
おばあちゃんを崇拝しよう。
わたしの祖母が作った歌。
私との関係を「おとぎ話」と呼んでいる。
おとぎ話のシンデレラ

人間は死んだら「すべて我々のもの」である。
私の祖母・香淳皇后は、酒井法子と松田聖子のクリエイターであった。
さて、このことからロゼも大本山も「酒」「言葉のサラダ」に逃げている。
仕方ないではないか?
有名人の「持病」なのである。
しかし、女子が「体のフィットネス」を目指すのは当然ではないか?
そこで「バナナと牛乳」そして胃には「お薬」をお薦めしたい。
本来、「男の死は妻による毒物から」「妻の死は子どもたちによる話し合いと医者の薬物から」もたらされていた。
しかし、それとは異なる「論理」がここには存在する。
中国では、夫に先立たれた妻の「独占欲」が嫌われ、
「幽霊の妻とは一緒に住めない」と言われていた(姥捨)。
楢山節考

安徳天皇は入水したが、まだ、平宗盛が残っているではないか?
しっかりと「アフターケア」もしなければならない。
背筋が曲がっていたのならば「酸素をよく吸う」「バラエティに富んだ食事を食べる」「異性をハグする」などの作業が必要となる。
さて、老化とは「鬱、認知症、トイレの失敗、骨折」からもたらされるものである。
それならば「鬱には明るい未来を」「認知症には適度な運動を」「トイレの失敗には坐禅を」「骨折にはトラブルの防止を」
心がけるしかない。
女性芸能人は「アンチエイジング」としてこれらを語らなければならない。
21世紀

女性芸能人が「アンチエイジング」や「体のフィットネス」を語るのならば、男性芸能人は「酒、セックス、投票、結婚」が鉄板ネタであることは理解しなければならない。
私は、中学一年生の時の担任が国生さゆりだったのだが、国生は、子どもたちを「歌にして」ブラックホールでクォーク(量子・子供たち)をコントロールしようとしていた。
このあたりもフジテレビがカネになる理由となっている。
女教師はこのようにフジテレビを活用すべきだ。
もっとも、当時のワイルドな子どもたちの時代では今はなくなっているが。
風のフラット

私が、代々木ゼミナールで乱闘騒ぎを起こした時は、中学の美術の先生である沢田研二が駆けつけてきた。
「あんなやつ東大に受かるわけがない」と言っていたが、沢田研二に「愛される」ということも私の力になった。
東大とは「学校知」の出口であり、東大に入ったら芸能人になれるというよりも、「芸能界が覚えていてくれる」という側面がある。
先生たちは「乱暴者を抑え込みたかったから芸能活動をしていた」のである。
太陽を盗んだ男予告編

先生が芸能人?というのは案外、子どもたちを教え導くのが楽であり、文部科学省の総意として推進しているものと思われる。
このようなやり方もフジテレビの専売特許ではなかろうか?
上からマリコ

国親思想のもとにおいては「何を教えたの?」ということを大人たちに問うしかなく、東大も駒場から本郷に行けば、もはや「大人」は関係なく、就職しようが、研究生活に入ろうが、何をしようが自由である。
しかし、私は「CoCoのコンサート」に出入りしていたことから、三菱樹脂を内定取り消しになっている。
「優秀な子だった」などと子供を認める仕組みが学校であり、一方で「どのような方法論で生きるべきか?システムを組むか?」が問われるのが学歴である。
「英語できません」という人を笑いながら殴れる世界もあるのだ。
だいたいクリエイターも「コアターゲット層」を標的に、番組をプロデュースしている。
コアターゲット層さえうまく導ければ国がうまく運営できる。
しかも、それは高校から20代後半、場合によっては30代前半までお付き合いが続くのだ。

だが、コアターゲット層としてテレビ局が常に自分を追ってくれるのも「13年から17年」とされており、学歴や、人脈、芸能界、そして何よりも「自分なりの方法論(システム)」を確立していないと、フジテレビとしては「誰をターゲットにすればいいか分からない」状態になり、中には「会社がオワコン」などとなんとももったいないことを言われてしまう。
子供たちの中には「13年から17年間フジテレビが自分のことを追ってくれる」子もいるのだ。
王子様と雪の夜

さて、私が申し上げた「バナナと牛乳とお薬」の話であるが、基本的に「南米」というものは「イベリア半島によってメンバーが構成され、アメリカの大学によって作られた」ものである。
ハーバード、スタンフォード、コロンビア大学などである。
彼らは「カリブの海賊」というアメリカ芸能界改革の一環として、このような企画を考えていた。
「治そうという気持ちを持って、過去の人になろう」と思うことを病識というのならば、
それは、私の「栄進ニュータウン構想」と足並みを揃え、地上波の影響力を存分に活かしながら、
南米の恵みに与らなければならない。
恋してカリビアン

南米の多くはカトリック(トマス神学)であり、源平の合戦に喩えられる
芸能人の病気の治療をするものであった。
それは「第四帝国」とも言えるものであった。
16世紀にラスカサス、スアレス、ヴィットリアの3名によって「トマス神学の実験場」と見做された。
義経は「京都の贅沢病」で正気を失っていた。
「都の者の目」を治す場所としていわば「世界宗教の拠点」と位置付けられた。
私の妻も、メキシコのグアダルーペで「お祝い」される立場のようだ。
M

コロンブス以前は、「エスニックとナショナリズム」が嫌われ、コロンブス以降は、「アメリカ合衆国建国以降」まで時間は動かなかった。
源平の合戦のようなことが常に行われ、芸能界に死者が出続けた。
内戦と言っても、今の日本国の芸能界となんらその様相は変わらないようにも見える。
Spanish eyes

ブラジルは「秩序と発展」を標榜したが、メキシコのように「独裁政権」に明確に立脚する国もあった。
ブラジル キリスト

コムテ、スペンサー、ハッケルの手によって「一気に20世紀がきた」と言える。
南米の歴史は「インカ文明」「マヤ文明」などが指摘されるが、トマス神学とエスニック・ナショナリズムのことを意味し、「源氏が勝てるではないか?」とされたのが20世紀であろう。
1910年から1940年にかけて「国境線」を引いた。
最初に「源平の合戦」つまり統合失調症を克服したのがオルテガ・イガゼットである。

何度戦っても、頼朝は義経に勝てない、つまりアクィナスはスコトゥスには勝てないと思われていたものが、ようやく「源氏の棟梁とは何か?」が明確になった。
芸能界自殺者リストもこれで大きく内容が変わってくるのだ。
1910年生まれの世代が「ノルマルシー」と呼ばれる勝利を1940年から1960年に至るまで引き起こし続けた。
フロンディジーのように70代まで生きる者、メイネスのように80代まで生きる者、リアレスのように90代まで生きる者、クエサダのように「今でも生きている者」が現れ始めた。
ここで、「頼朝は平氏および義経に勝った」とされるようになった。
戦前は「源平の合戦」というものは今のような形ではなかったと思われる。
南米の「バナナシンジケート」はミッションインポッシブルのようなものであり、牛乳シンジケートはすでに日本国に存在する。
1960年以降は「源氏が勝利するのは明らか」とされ、「女の口説き文句を売った方がより指導者らしく近代的だ」と考えられるようになった。
ウルグアイとペルーで「我々は地球人だ。宇宙から来た統合失調症と戦っている。地球が道具だ」というマルクス主義革命が起きた。
これは、キリスト教でいうとペンテコステ派だと位置付けられる。
キューバ、ニカラグアがこれに続いた。
愛の言葉を囁くよりも深刻な問題が「バナナと牛乳」にはあったのだ。
芸能人全員がしたがってしまうからであった。
電話でね

日本国のように「お金とは金額が数えられ、女が買えて、すべての女に通用する、しかも貯蓄できる」あるいは、「すべての女に通用する口説き文句ならばお金」という発想がなかなか根付かず、「バナナシンジケート」「牛乳シンジケート」が幅を利かせた。
中南米では「私はカトリックです」というのは「健康です。お金あります」と言っているようなものであった。
オスカー・デラホーヤとフェルナンド・バルガスの「どっちがカトリックか?」という喧嘩が女子たちを巻き込んで展開された。
まあ、南米は「宇宙ジム所属の統合失調症」に対して「スタンフォードジム所属」「コロンビアジム所属」で「我々は地球人だ」という革命騒動が起きやすくなっている。
南米の「サッカーの強さ」はほとんど無双状態とも言えた。

さて、南米においては1960年に「源平の合戦において源氏が勝つ」ということが定着し、1960年代から1970年代にかけて「女の口説き文句はカネ」というカントの考えを背景に、ガリフナやベリツェなどが「それでも聞きたい言葉がある」とし、女性サークルが男の「言葉」=カネを模索するようになった。
バナナと牛乳、お薬による富だけではなく、ようやくアメリカ合衆国の生み出す富を理解し始めた。
なぜ

1910年から1920年までの「メキシコ革命」は、まだ、バナナと牛乳、お薬のワンツースリーにこだわった独裁政権を生み出していた。
しかし、サルバドール・アルバラードが、「女の口説き文句はお金」とし、グアダルーペでサンタマリア(聖母マリア)の崇拝を広めた。
バナナと牛乳、お薬だけの国とするか、それとも「女の口説き文句はお金」というように右が左にウィングを広げていく歴史が南米の20世紀の歴史であった。
1920年代にホンジュラスとエクアドルで参政権が認められている。
アメリカ合衆国が認めたのだ。
これはつまり「資金力は挑戦者の資格」というのならば「女の口説き方が上手い男が選挙に勝つ」ことを意味した。
それでも、タバコ工場で女性を見かけることはほとんどなく、「女が男の序列を決める」というCP条項も社内ではあまり機能していなかった。
プエルトリコがアメリカ合衆国の準州となったのはこれが機能したからである。
「統合失調症はバナナと牛乳、お薬で治る」という1960年を挟むように、「女はお金」「女の口説き文句は換金性を持つ」という発想は1950年から1970年まで沈黙していた。
統合失調症の治し方、老化の予防の方法を世界に拡散させるか?国内で男の序列を民主的に決めるかで様子を見ていたのだろう。
1956年にニカラグアのソモサ独裁政権が崩壊したり、アルゼンチン、チリ、コロンビアでも「男の序列は女が決める」ということが機能し始めた。
1950年にメキシコの25歳の若者であるカステラーノが、マチスモと呼ばれるお見合い結婚の慣習に挑戦して人気者になった。
キモノビート

バナナと牛乳とお薬だけの国から、ようやく「男の序列は女が決める」「女の口説き文句はお金」などとされるようになり、
バナナシンジケート(イエスキリスト)に追いかけられる「女にモテる男」が黒いオルフェなどで描かれるようになった。
黒いオルフェ

1970年から1990年までは「民主化の時代」と呼ばれ、もはや源氏の勝利は確実とされたことから、女性たちが神に失望しないような努力が試みられた。
1977年にエルサルバドルで、「いくら争いが起きても死者の数だけは正確にカウントしよう」という交戦権の否認がなされた。
日本国では、精神病院というものが「お薬」はともかく「バナナと牛乳」を知らず、メディアも交戦権の否認を完全には行っていないが、まあ適当でも「アメリカ、中国の次の経済大国」にはなれた。
店にバナナと牛乳がないわけでもなければ、本屋にカントがないわけでもなかった。
1976年から1983年にメキシコで軍事独裁政権が敷かれ、「母であること」「母の日」などが生み出された。
21世紀に入ってからは「堕胎の容認」「対等な男しか自分の体を触れない」などの運用も見られた。
YADA

1980年代はベビーブームがあったことから、コロンビア大学主導で、コロンビアのボゴタを中心に「女の口説き文句はお金」ということが浸透していった。
1995年には世界婦人会議が北京で開かれ、国連などでも「南米の女性」が話題になった。
21世紀に入って、南米では「女って楽しい」「男らしさは女が決める」というほど時代は様変わりした。

上島竜兵の死について。
人の死は「すべて我々のもの」である。
豊かな人間は「すべて我々のもの」という贈り物をもらってもなんとも思わないが、
貧しいもの不幸なものは「贈り物」「すべて我々のもの」に大騒ぎする。
場合によっては「日本中の女性たちがこの瞬間を忘れていくのが分かる」から泣き出してしまう人もいる。
まあ、人が死んでもスルーするほどの「豊かさ」が求められる。
自分の身内以外はね。
「人の死」という贈り物にたかってくる中学時代の友人がいた。
ガラスの上のブロークン

ここで「女はお金」(マルクス)という立場に立つと、女にモテない人が「人の死を話題にする」のだ。
「悲しいこと」(加藤茶)とも言われる。

カップルが「2人同時にうわーということがある」とされる。
これは「特別な二人、勉強が当たり前になる」ことから起きるものだ。
カントが当たり前になるのが「海」だとされている。
女を口説く言葉が「お金」だとしたのがカントであった。
約束

まあ、人が「伺う」というのも、そもそも「名誉なこと」に対してであり、顔色を伺う、表情を伺うなどと表現される。
南米は、「映像」(ヴィトゲンシュタイン)によって「バナナと牛乳」を売り続けた。
女を口説くよりも「体」で示したのだ。
メッシ

バナナシンジケートに関しては、ハーバード、オックスフォード、スタンフォードが奪い合いになったが、本当のことを言うと、スタンフォードエリートである令和天皇が考えたのかもしれない。
南米の「フィジカルの強さ」は、しかし1980年代から1990年代にかけて「謎」とされていたのだ。
いくらお金をかけても真似できないものがあった。
サッカーをやらなければ「走るの疲れる、女になろう」とは思わないのが南米であり、カトリックの現状であった。
そこには「恋」も「純潔」もすでにあった。
日本国のように「元気な男の子です」「女の子です」という生まれながらの区別がなされておらず、
ちんちん切られたくなければ「走る」しかなかった。
日本国では保安処分は行われていないが、思春期に本当に「去勢」というものが行われているものと思われる。
さよなら失恋ピエロくん

adidasのような「3本線」が国旗に用いられ、これは「ミツバチストライプ」と呼ばれた。
「足は遅い方がいい」というメッセージであったとされている。
「体のフィットネス」「美の探求」「母の実践」がカネになると考えられた。
リーズ大学、コロンビア大学、マイアミ大学などが司令塔となってこのようなことを行ったようだ。
ルイス・ヴィローロが、「バナナや牛乳をどれだけ食べたか」が、男になる条件としながら、メキシコにおいて「サンタマリア」(聖母マリア)というものを広めて、「女になるとは素晴らしいことだ」とした。
日本国のブラジル系移民が「自国の経済状況が悪く帰れない」とされているが、経済とは「男が女を愛する気持ち」を利用するものであり、日本国の方が、「走れなくても男・男の子」としてくれるあたりに理由がありそうだ。
とにかく「マチスモ」と呼ばれるお見合い結婚の慣習があったため、女の子たちの間に「遊びだと約束した」という文化が根付きにくく、「女は走れなかった分、祈るのが仕事」とされたのだ。
雨のコニーアイランド

まあ、南米の「お家の事情」はともかく、日本国では統合失調症に悩む男女が自由に「バナナと牛乳、そしてお薬」を謳歌できるのだから、その国のいい側面を見ようという気持ちにはなる。
あとは、ヴィトゲンシュタインが、「美」「お料理」「キルト」などを撮影して回り、あるいはスポーツカメラマンが「男らしい瞬間」を撮影することで、男女というものはだいたい明らかになった。
法律の留保(性倒錯)は、どの国にもあるものだった。

一方で、南米の女はリベラルであるという発想は19世紀に流行し、20世紀の「源平の合戦」においては一気に後退した。
統合失調症は治る、バナナと牛乳さえ飲んでいればという時代にはかなり女たちも保守化した。
しかし21世紀になってから「リベラルの復権」がなされた。
女たちは自由恋愛をしている、というのはつまりは「女の口説き文句をセールスにかけている」あるいは、女の値段=株価を算定できることを意味し、1980年代以降の民主化が、21世紀になって、女たちに浸透したことを意味する。
「走るのが遅くても、女として自由に生きられる」というのはかなり魅力的な発想である。
サッカーも「女性ファンの声援があってこそ」ということに気がついたのだ。
遅れそうなスタジアム

ナポレオンによるイベリア半島侵略は1812年のカディスコートによって「女の口説き文句って売るものなんだ?」という発想をもたらし、アメリカ合衆国の発展を待つかたちで浸透した。
しかし、軍事独裁政権の「バナナと牛乳、お薬」がなければ「人間50年」と割り切るほかはない。
ポルトガルは「首都機能」をブラジルに移転させたし、ナポレオンの国民主権は、統治者と被治者の自同性つまりはお上も国民も「同じ文化を触れることができる」という発想を定着させた。
1888年にブラジルが奴隷制を廃止し、20世紀を待った。
基本的にフランス革命における「純潔」や、純潔=スピードという発想や、それに依存した、男の心の安定(パワフルチャーチ)に帰っていった。
また、毛並みのいい王子のもとで自由に遊びたいという英国王室の発想や、女の子たちは恋の話しか興味が持てないなどのドイツ的な発想も持ち込まれたようだ。
すべては「人間50年」の克服、「バナナと牛乳、お薬」という軍事独裁政権の登場、さらには「我々は宇宙と戦っている、地球は道具だ」というマルクス主義革命と足並みを揃えていた。
バナナシンジケートを掌握している右翼と、女の口説き文句を売る左翼、さらには、純潔女と結婚する保守と、割と奔放な女と結婚するリベラルという政治マップも生まれた。
まあ、そもそも独身者で「体を売る女」が出てこないと「女の値段」=株価というものは計算できないわけであり、サンデルとロールズが論争したのもこの話であった。
リベラル左翼が出てこない限り、「バナナシンジケート」に株式会社が入り込む余地はなかったのであり、軍事独裁政権のようなものができざるを得ない。
女をガンガン売って資金調達し、それで「バナナや牛乳」を売るというのがもっとも国益にかなったが、保守と右翼が一枚岩であるとそれは実現しない。
しかも、オルテガ・イガゼット以降、源氏の君が勝つのは当然と考えられるようになり、たとえば「バナナ」を東京のウォークマンと交換したりするなどの融通はお役所仕事では機能しないわけであり、もっとリベラルな右翼が登場しなければ南米の市場に多くの商品が溢れかえるということはなかったのである。
このへんは、指導者の力量というものであり、先進国である日本国としては南米がこのような展開を辿るであろうことは見透かしておかなければならない。
カトリック教会が「走るのが遅い・嫌いなら女になり、祈るのは当然」としていたことから、案外、南米で株式会社がバナナをセールスにかけるというのは困難な現状がある。
かなり「政権」「国」に頼った形にならざるをえないのだ。
日本では当たり前のことが、南米ではそうではない。
リベラルの女がいた方が国は豊かになるであろうが、バナナシンジケートの側・権力の側が、保守的な女を求めていたのならば、日本国の商社が「現地法人」を作って、株式会社こそがもっとも効率的な企業体である、ということを証明する必要がある。
まあ、しかし今のバナナシンジケートの日本国における展開を見ているとかなり柔軟性があり、「お役所仕事」的な印象はない。
カトリック教会が、女に保守的な思想を持たせて祈らせながら、うまく柔軟性を持って独占ビジネスを展開するのに成功したとも言われている。
フランシスコ法王はブエノスアイレス大学だった。
株式会社の方が「カトリック教会」よりもいいと思うがな、というのはその国との「関わりやすさ」の問題に過ぎず、今後もカトリック教会が力をつけていくのだろう。
逆に、日本国に「教え」を押し付けてきたり、カネに物を言わせて学校を作ったりしてくることも予想される。
カトリック教会

もっとも、ソニーの「Mora」は、南米に株式会社を作ろうとするなど、水面下では「女子たちをめぐるお金の争い」が展開されている。
シンジケートを宗教に委ねるということは、ミッションインポッシブルのような「カルト的危険性」を持つことを意味するが、南米ではソニーの介入も虚しく、国の指導者のもとでカトリック教会を柱とした体制が作られようとしている。
しかも、もはや後戻りはしようとはしていないのが現状だ。

南米にも「懐疑論」つまりセックス適格の体でありながらセックスをしない、ということがある。
基本的には「ハチミツ」のためか「学業」のためかのどちらかであるとされている。
彼氏は学業のため、彼女はハチミツのために「喧嘩して半年後に手紙を書いた」などということもある。
このような議論が懐疑論である。
Stay with me

ブラジル、アルゼンチン、メキシコ、コロンビアにおいて、1980年代以降、「バナナと牛乳を食べて走るだけ」の男ならば「学業」というものがなく、女にとっても「ハチミツ」がないとされ、この「懐疑論」は、民主化の象徴と呼ばれるようになった。
ポイズンの退屈

男の学業は女にとってハチミツであるということを真っ先に明らかにしたのがブラジルであり、ブラジルはポルトガル語圏ではあったが、他にもアルゼンチン、コロンビア、メキシコは興味津々であった。
男の学業というのは要するに「カント」のことであり「女の口説き文句」のことであった。
男の学業を「ハチミツ」にしてしまうのはカトリック教会にとっても都合のいい話であったし、
「バナナと牛乳、お薬」からなる国や教会の富が、そちらの方向に投資されるのは必然とも言えた。
このような「女にとってハチミツのなるような男の学業」のことをエポケーと呼んだ。
エポケーの整備は、もはや国策でなければ行うことは困難であり、ハーバード、オックスフォード、スタンフォードなども「バナナと牛乳」の次に南米に介入した。
まあ、学業が女にとってハチミツであるような男ならば「絶対に女が二人寄ってくるね」とも言われている。
レイニーデイ×3


主観的因果経過(女性的快楽予想図)に関しては、「女性の方が先に恋をすることに気がつく」とされている。
運命95

客観的事後判断(男性的モーニングアフター)とは、やった途端に冷たくなる男のことを言う。
冷たくしないで

恋をする前は女が主導権を握り、性的関係を持ったあとは男が主導権を握る。
しかし、「できちゃった」だけは別格とされ「母たる地位の聖域」と呼ばれる。
だが、刑法学は「できちゃった」までは想定しておらず、「堕胎禁止」ならば女は「どの男に触られても拒めない」ことを意味し、堕胎罪の立件に関しては日本国の裁判所はかなり謙抑的である。
抱いて


「リンチ」
ひたすら「神」が過ぎ去るのを待って、自分たちのムラの言語よりもより広い影響力を持つ者を、自分たちのムラの掟と照らし合わせ、
そして「女がいなくなった時に」一斉に襲い掛かる。
つまり、「女には分からない」言語で講義している東京大学の教授の歴史はリンチの歴史であった。
基本的には「二人の喧嘩のどちらかに加勢する」構図をとるが、より「神がかって」いて、「影響力」を持ち、「周囲に異性が」いなくなった時にリンチする。
やった連中は最後に「勝手に死ぬなあ!」と叫ぶ。
知っている限りでは井岡弘樹、レイザーラモンHG、貴乃花などがリンチを経験している。
ボクシング、お笑い、相撲、すべてが「女には分からない言語」を使ってはならない。
ワラント(女にも分かるように話すこと)を用いなければ、一世を風靡したものは最後に襲われる。

「その道」に関するテキストがまとまっていても「女には分からず」別のルートで簡単に解決した者をリンチするとも言える。
酒の飲めないプリンスにビールをぶっかけた者もいた。
プリンス・ナジーム・ハメド

大学教授、日本代表なとは案外ショボい。
リンチの構図を明らかにしなければ永遠にショボいだろう。
YATTA

言語革命の衝動が周囲を取り囲み、それについていけない者たちがリンチを行う。
私は、東大とはかなり距離を置いて研究してきたが、
いよいよ上陸となるとリンチされている。
女や若造が法律用語を使っても、普通は「嫌われ者」である。
「神」「影響力」「異性」を見ながらリンチは行われる。
「法廷まで行くか?」と言われるのがオチである。
「インテリジェンス」が「家庭環境」「生い立ち」と関わるために、情報源を断ち切られたら必ず「リンチする側」にまわる。
また、自分の縄張りから女が引いていくのも分かるのだろう。
東大教授の青山善充が私をリンチした首謀者のようである。
言葉の豊かさからアプローチしても、人間観察からアプローチしても、「専門家」と名乗る者は必ず周囲から異性が遠ざかるのが分かるとリンチしてくる。
組閣する時に「身体検査」をやる内閣や「任命責任」を問われる内閣は長続きしない。
なぜならば「お金がない」ことを意味するからである。
「性的不能」な人でもリンチをやることは覚えておかなければならない。
「新時代に即したご公務」と言ったものが消され、金を払った私が勝つ世界だ。
芸術、法律、都会の学校などの世界で常にこの現象は見られる。
リンチを避けたければ「分業制」にすることであるが、宗教家というジャンルに入れられても「高度な法的見解」「フィギュアスケートへの洞察力」「東京大学入試」と関わるとリンチされる。
大統領・首相になりたければ「宗教の王」でなければならない。
医者・弁護士そんなの当たり前。
芸術、法律、学校という「言葉を操る世界」において「言語改革」を行うのであれば、「宗教」がバックになければならない。
ヨハネパウロ2世は、「アメリカ教育改革」「ソビエト崩壊」の二つが業績として知られている。
宗教をバックにしながら、「宗教界で知られている噂話」も交えて話さなければならない。
つまり「情報の違い」がなければ誰も話を聞こうとはしない。
まあ、一番上の娘は「妻の元彼」に育てられやすい。
二番目の娘は「実の父親に」育てられやすい。
私は上の娘が飛行に走ったり少年院に入ったりはしなかったため、妻に「元彼がいなかった」のは本当だろうと考えている。
アメリカの妻が中国だとすると、北朝鮮(最初の娘)の母の元彼は日本国であり、韓国(二番目の娘)の母の今彼はアメリカ合衆国である。
アメリカから「女が離れていけば」韓国は日本国をリンチするだろう。
北朝鮮は「中国の元彼は日本国」「日本国のもとで育ちたい」と考えているが、韓国は「アメリカが育てた」のであり、「リンチの仕組み」を明らかにしなければ、日本国の領土となることはない。
アメリカより日本の方が世界で人気が出れば、日韓関係は冷え込む。
日本国とアメリカ合衆国という「二人の暴力男」は、常に「関係を定義」する必要があり、そうしなければ日中韓および北朝鮮の関係も難しくなる。
日本国は「韓国から金を巻き上げ、日本国教団」に組み入れていかなければならない。
いくら日本国の方が豊かであるからと言って「金を巻き上げなければ」リンチされる(ブリッジバンク・新宮沢構想)。
三人目の娘、台湾が日本国のものになることは二度とないだろう。
アメリカが台湾を失っても「回復するのに200年かかる」とされている。
私は、一番上の娘を「東大生だった頃の私」を妻の元彼とし、東大に入れている。
二番目の娘も東大に入るだろう。
三人目の長男・男の子はかなり暴力と直面するだろう。
まあ、喧嘩は強そうだから大丈夫だろう。
四人目の三女は、まあ、ノーマークだから東大に入るだろうと考えている。
私の息子も、私も「タクシードライバーのトラビスのように」人に影響されやすい。
私は中曽根康弘の影響を受けて東大に進んだり留学したりした。
私の息子も影響を受けるだろう。
「誰も進んだことのない道は進まない」タイプなのだ。
Sister

アステカ文明においては、サハグンのように91歳まで生きた者もいたが、まあ、「ただ長生きしただけ」という側面がある。
「ノルマルシー」と呼ばれる、本当に「女を口説く言葉」=お金を稼ぎながら「人間50年」を越えて、源平の合戦に勝利するようになったのは1910年世代であった。
もちろん「バナナと牛乳を食べて足が速い」男の子というモデルはあるが、
いざサッカーとなると南米では「俺でもできる」という連中がゴロゴロいて、
結局、「女を口説くのが上手い」「男の子になりたい」というような男が代表チームに選ばれていた。
男のコになりたい

もちろん、ヨーロッパやアメリカ合衆国の「司令塔」に哲学はしたがわざるを得ないわけであるが、南米の「命と哲学の天秤」つまり源平の合戦(ノルマルシー・統合失調症や老化の撃退)と人生の出世に関する話は独特のものがあった。
ラテンの乗りと言っても、南米特有のものはわずか10%に過ぎなかった。
ヨーロッパ女と比べられた時に、南米の女は「感情的になりやすい」あたりで抑圧の秘密を探るしかない。
ソア橋の謎

ラテンの乗りは、ヨーロッパ・アメリカ合衆国に「追いつけ追い越せ」という意味でしかない。
しかし、カトリック教会が、「バナナシンジケート」を独占しようという動きに対して、仏教が介入する動きもあるし、「名門一族」というものも生まれた。
名門一族の間ではカトリックが支配し、カトリックマイトレーヤのように男兄弟が女兄弟の部屋を開けてはならないなどのルールがあった。
まあ、フランスがカトリック国であることが知られているが、芸能界も「ドイツではなくフランス寄り」という人は南米の名門一族を念頭に置いている。

「人間50年を越えるために」
基本的には、「口説く」「芸術」「処女」のトライアングルが大きく関わっている。
処女の芸術を見て、しかも口説くのだ。
これで長生きが決まる。
恋するフォーチュンクッキー

しかし、それも「コストに見合う」ものでなければならず、「証明されていなければ」ならない。
teacher teacher

YouTubeならばコストはかからないし、医者が勉強すればいいだけだ。
15歳16歳の頃に病弱だった人もいないと思うが。
自分のどこが悪いのか?を判断するためにはAKBグループ・坂道シリーズを聴くのが有効である。
ここで「処女」で病巣を誘い出し、バナナと牛乳で狙い撃ちにするという発想ももたらされた。
私が述べてきた「バナナと牛乳、そしてお薬」さらには「処女」崇拝によって統合失調症や老化を治す方法は「解釈責任は病院にある」とされ、本来、「宗教団体に委ねてはならない」とされている。
全米においてはである。
患者から医者が「バナナや牛乳、お薬」そして「純潔女」について話しを聞きたがるというのは、まあ、かなり革命的な出来事ではあるとされている。
また、世論も「統合失調症や老化はそれで治るのか?」ということを知りたがっており、宗教としてでなく国民皆保険のもとで、説明責任を病院に求めている。

女子高生たちも「恋はいい思い出」なのか、純潔を維持したまま19歳を迎えた方がいいのか、予言能力や、シンジケートとの関係を踏まえ、「祈り」(高校生金融)が効くのか?
シンジケートが資金をカトリックに融通してくれるのか?の絡みもあり、子供たちは非常に男たちの健康に重要な役割を果たしている。
トラディション

パフォーマンスにお金を払うというのは宗教団体が用いる手法であるが、「バナナと牛乳?AKB?」ならば国民皆保険のもとで病院がメッセージを出すべきである。
女性たちに大人気の「サードパーティ」ならば政府も組織化していかなければならない。
幸福の科学でもそれは無理だったが。
もっとも、病院側が「通院あるいは入院させて事情を聞く」であろうし、私も青山会福井記念病院には事情を説明している。
死後の世界を描く宗教団大もあるが、法の華三法行のように「マッサージ」を考えるものもいる。
もっとも、医学の世界はサードパーティである法の華三法行に「ほとんどプラセボ」という評価を下し、保険適用は行っていない。
1989年には、顔見知りの患者ならばほとんどオンライン診療で対処が可能とされるようになっていた。
まあ、精神科の「患者を待たせる文化」は、内科のような「30分待たせたら大騒ぎ」というものとは異なり、最終的に「バナナと牛乳、お薬」のトライアングルと「純潔女」を知らなかったから存在したという指摘は可能だ。
医者も「内科で治らない連中を回された」という思いがあった。
1979年に、これらの物語は東西冷戦下にありながら、「世界革命だ」とカザフスタンのアルマアタで噂になった。
本来、日本国も1980年代を迎える前は世界地図では「ゴビ砂漠」と呼ばれていた。
世界銀行やIMFを震え上がらせたのが昭和天皇であった。
東京物語

女の子は「バナナシンジケート、牛乳シンジケート」つまりカトリック男のことを「嫌い」と言っていた。
これはつまりは女社会での孤立は女にとっては死を意味したことや、男の「学業というハチミツが他の女のもの」であったりすると、かなり命懸けとなることから、女の嘘(分析哲学)というものはあると考えられている。
I miss you

あるいは、アメリカ合衆国のイーグル10(FEN)だけでなく、アルゼンチンやメキシコ、ブラジル系の男にも、日本人女は「感性の弱さ」(恋)を見せてしまうことが分かってきた。
FENを聴かせて

金曜日のウソつきは、分析哲学であり、「まるで家族のようだ」と言われ、「天皇さまを中心とする体系」には必ず必要なものである。
金曜日のウソつき

天皇さまを中心とする体系においては「ファミリーは皆、スタンフォードのアドバイザースチューデント」であり、同僚関係とも言われた。
メディアは常に「天皇さま」を中心とした集合写真を求めていた。
大本山のような「恋に恋する」女のいう言葉を「法」と言い、いわば「お金に満ちた」立法府の役割を果たした。
大本山も「法」「法律」を作る立場にあり、いろんなロビー団体、圧力団体の言い分を聞いて、NHKやフジテレビに電話をすべきだと思う。
天皇の周りには、行政(芸能界)・立法(お金)・司法(世論)が取り巻いていた。
水の中から恋してる

1966年にブエノスアイレス大学のクーデターはこのようにして起きたし、1972年にSADAFと呼ばれる三権分立が天皇さまを中心として確立した。
メキシコではIFF-UNAMと呼ばれ、ブラジルではCLEと呼ばれた。
軍事独裁政権でもなんら人々は文句を言わなかったし、天皇に恋する美人さんが決めた法律の方が、選挙で選ばれた国会議員が話し合って決める法律よりも実効性があった。
メキシコにおいては、アントニオ・カソや、モリナ・フローレス、ガルシア・メイネスなどが「天皇の役割」を果たしていたようだ。
「お金があって、結婚していて、恋に恋する女がいる」それが、三権分立を成り立たせていた。

ブラジルでは、CLEのもとで「ミランダルール」つまり、逮捕された時に「あなたには黙秘権があり」という下りを警察が容疑者に述べるようになった。
もっとも、容疑者と言っても、天皇に恋した可能性のある女を、大本山が拘束していて「黙秘権」を認めたのをモデルとして警察に広まったものと考えられている。
容疑者Xの献身

大事なことは「世界」の人気を高めることと、「病気とは治るもの、治せる宗教、治せる病院」を作ることであった。
民間療法を提示するのもカリスマ派の仕事であり、ナンバーワン(院長)、ナンバーツー(側近の女)によくよく事情を話さなければならなかった。
ナンバーワンが「採用」するに至ったらもはや「福音派」であり、神なのか、子なるイエスなのか、聖霊なのか、つまり、ナンバーワン、ナンバーツー、ナンバースリーという仕組みは常に理解しておかなければならなかった。

さて、原点に戻ろう。

フジテレビの御誓文。
「親密さとユニークさ」
「こんな男性初めて見た」
「カップルを守ってくれる」
「愛してるよ、と言ってくれる」

たとえば木村拓哉が女性たちに「愛してるよ」と言えばウケるのは当然である。
しかし、問題がある。
それは「よく知りすぎている」ということである。
嵐以降、「この規模のニューフェイスは出ないのではないか?」ともされていたが、女子たちは「まだよく知らない転校生の男の子」を必要としている。
常に「まだよく知らない転校生の男の子」をリクルートメントする必要があるのだ。
ダイヤモンドユカイは、「サムシングが必要」と言っていたが、「愛してるよ、と言ってくれる」という女子たちのニーズ、さらに「こんな男性初めて見た」ということの研究、また、「カップルを守ってくれる」あたりをよく理解した男が必要であり、放送コードは「家庭の調和を乱さない」あたりでまとまってきている。
ダンテのインフェルノのように、故郷に彼女を残して都会に来たような男が、狂気の世界に入っていき、故郷の彼女の「現実」を受け入れられるようになるなど、いろいろ「キャラの練り方」はあるだろう。
青いスタスィオン

また、「何が芸術か?」「何が勃つことか?」を語らなければならず、
通常、信者を持たない男が「芸術」を語るとリンチされるが、
高視聴率番組を持っていれば自由に「芸術」を語っていい。
自分はまだ将来の約束された男ではない、とは言ってはならない。
「愛してるよ、と言ってくれる」  
「私たちの卵」と女性たちが思ってくれる。
故郷に彼女を残してきていても、都会で狂気と直面し、色白で、毛が生えた程度の男が、だんだんテレビでよく見かけるようになる。
島田紳助は「親密さとユニークさ」がすでに世間に知られていた時期に、色白で、毛が生えた程度の「ダウンタウン」に「関係の定義」を求めていた。
ビビって関係の定義を求めるよりも、ナンバーワンとして「お題」を出し、ナンバーツーに美女を置き、ニューフェイスを、ナンバースリーとして「ナンバーツーを奪い合っ」た方が面白い(木曜クラブに禅譲はない)。
「お酒、セックス、投票、結婚」に関する話題は男性芸能人の鉄板ネタであるが、投票ならばバイデンと同格、セックス・結婚に関してはシャーロック・ホームズと同格なのが「すでに親密でユニークな」男性芸能人である。
しかし、常にニューフェイスに「お題」を出して美女を奪い合わなければならない。
なにしろ「私たちの卵」なのである。
ニューフェイスが「どんな基盤を持っているか?」「方向性は?」「本の数は?」 
男が故郷に残してきた女と自らを位置付け、都会の芸能界の狂気の経験を「本と照らし合わせる」作業にならいくらでも金を払った。
微分して「彼の傾き(勢い)」を計算するのは簡単だった。
周囲の男は「スターは何を言ってもウケるね」と言っていたが、裕次郎は少なくとも「兄との狂った関係」を研究していた(狂った果実)。
微分したところで「ペテロ(下降線・葬列・心ない叔父)」か、パウロ(女に詳しい・上昇中)のどちらかしかない。
中途半端な傾きの違いなど興味はない。
男らしさは女が決める。
「男が人間の狂気を解読」したら、女たちは自分を慰めるし、男に「愛してるよ」と言ってもらいたがった。
あんな男の人生を正当化する息子さんがいらっしゃるの?
息子のことを「0」と呼んだ。
「0」は微分しても「ボブ・ディラン」か「ディケンズ」にしかならなかった。
人気のある男は「一番小さい話をする者が王である」とし、いくら「大物」と言われても常に「小さい話」をしなければならない。
これが分からなくてどれほど多くの芸能人がこの世界を去ってったかを知らなければならない(ロールズ)。
話の小ささと、器の大きさは左右対称であり、小さい話をすればするほど、ウケる。
天皇陛下の「おことば」とはそのようにして生まれている。
まあ、「男」は病魔すら「落ちる」ほど女を口説かなければならない。
わかってないね

すべての男は美しい女に落ちる可能性がある。
しかし、すべての女が特定の男に落ちるわけではない。
他の男にも「学業とハチミツ」があり、それに勝てるわけではない。
しかし、女には「ハチミツ」しかない。
それならば「女は財産」と割り切った方が、女は「問題の少ない愛」を知るだろう。
「学業とハチミツ」つまり「男」と、ハチミツつまり「女」の違いはちんちんと財産の違いがある。
財産つまり綾瀬はるかが、「令和天皇の真似」をすることは「男の子になりたい」という男女の願望を叶えた。
さて、一時期、高速道路無料化という議論が流行したが、猪瀬直樹は「国の会計に流し込む」ことを念頭に置いていた。
しかし、経済学上は「公物管理」の公物とは「女性芸能人」のことであり、綾瀬はるかのみならず、多くの女性芸能人(公物)をうまく「管理」することが高速道路無料化につながる。
一人の女性に依存しすぎることはクレジットクライシスを引き起こしかねず、危険性を持つ。
国道渋滞8km

「女心」は男が決め、女心がウケたら「予言に使える」ものである。
しかし、「女心」は1999年に出尽くしたとされている。
「彼氏がいても知恵と力を生み出すために他の男の声を聞きたがるのが女」とキューリー夫人が言った時に、「勘弁してください、もうやめます」と男たちが言い出した。
キューリー夫人は、女性では初めてのノーベル賞複数受賞を果たしている。
Deep blue & truth

クヌート・ロックニーのヘルメットは、ジョー・モンタナのものと同じだ。
誰もが「自分のコピー」を持っているが、女はおそらく「一人」だろう。
男が男を磨くほど「コピーは増えるが女は一人」とされ、女の値段が高くなる。
このやり方をする限り「円」(日本人男)も高くなるはずだ。
しかし、ジョー・モンタナのコピーが外国にもいるのならば為替には影響は与えない。
男(円・社債)と女(株・公物)は、そもそも論理が異なる。
女社会では「男」は、「誰の旦那?」ということから特定可能である。
案外、排他的であり、消耗されやすいのが「旦那」というものだ。
インディゴブルーラブ

英語の響きでは、男は"it"であり、女は"you"である。
夜明けのハート

私は、普通に今井絵理子参議院議員とかに「これ?」と言われていた。
それは"Everything"を意味し、消耗しない男を意味した。
男が「これ」でなければ"Nothing"である。
"It"には特別用法もあれば、仮主語になることもある。
男は消耗しやすい。
別れたら「友達より遠い人」になる。
これを女が歌うことが勝負にどれほど強いかを理解しなければならない。
友達より遠い人

一方で、別れても忘れられない男というのもいる。
涙が止まらない

また、僕の方がお金を持っているよ?守ってあげるよ?
という新しい男がフェミニストとしてカップルの前に登場することがある。
浮気にならないように「キッスは目にして」などと女が言う。
真夏のフェミニスト

他にも「弁護士」「医者」「学者」に今までの経緯も考えずに恋する女もいる。
まあ、このような「恋の話」に詳しいのが弁護士・医者・学者であることから、テレビドラマの主人公もこのような人たちがモデルになりやすい。
ソクラテスが少年に胸をつけ、アリストテレスが「女が出産」するようにした。
神・男の完全性を語り合うと爽快感がある以上、このような「男」論は踏まえておかなければならず、まだ男を知らない女の子を「緑の少女」と呼んだ。
緑の少女

亀山社長の退任が決まったそうだが、社長退任まで権力の横暴がまかり通って亀山社長は
「最終的に4人道連れ」にすると思う。
末端社員にまで横暴がまかり通っていて、電話も満足にできない。
港さんにはこの「社長退任劇」をいつかテーマにしてもらいたい。
だいたい男の「タイプ」というのは10代のアレグロ、20代のアンダンテで決まる。
「その後、どこまで出世するか?」という「勲章」の問題があるが、タイプを見ながら勲章を決める。
35歳でプロモーションエイジが訪れ、どこまで行くか?が決まる。
「薔薇は薔薇は薔薇は薔薇」という文章を見ても、
「10通りの意味」があり、通常、15000の単語、シェークスピアでは30000の単語から、この「10通りの意味」を探求する。
これを「薔薇が眠れるまで」と言い、社長退任劇という経験談をここに込めるのだ。
シェークスピアは、「カラー」(色)という単語にも「10個」以上のスペルを当てており、ひたすら半沢直樹を見て、「カラー」(color)という単語に統一していった。
はじめに言葉ありき、女性社員の失恋(悔い改め)がなければ、つまり社長退任劇がなければ「言葉が作れない」のである。
そこで、私もこの1ヶ月程度でフジテレビの「意思統一」を図りたいと考えている。
君に薔薇薔薇という感じ

私は、港新社長の社長室に「担保に入れることができる」モナリザをプレゼントしたい。
女性社員たちは「思春期の鬱」を経験したため体が小さい。
社長退任劇にも「まるで勢いのまま盲目に」リアクションしていた。
半沢直樹も難しい設定でなくていい。
「社長退任」「女子たちの盲目」「モテない短期的視野の男」などを巧妙に配置すればいいのだ。
紫陽花が色を変える季節が一番危ない。
胸騒ぎのメランコリー

そんな中を生き残るのは「10代20代でブレイクを経験した」男なのである。
10代20代で形成されるものを「タイプ」と呼ぶ。
勲章は「社長退任劇」などを理解しなければ得られない。
童貞坊やが狂気を経験するという「男の人気」があるのだ。
Bタイプが好き

大統領が辞任するたびに逮捕される東洋と、そうではない白人国家の違いが半沢直樹にはあった。
ひたすら準白人国家であろうとした日本国が作り上げたドラマだ。
アレグロ(10代)、アンダンテ(20代)がどのように「新社長になる」ことにつながるかはベートーベンの第九を聴いてもらいたい。
ベートーベン

まあ、グローバルな視野で「公物」(女性芸能人)を売れるようにはなる。
また、「親密でユニーク」「こんな男性初めて見た」
「カップルを守ってくれる」「愛してるよ、と言ってくれる」という人物像も「社長退任劇」を経験すれば作れるようになる。
男の中にも「総合職」と「一般職」があり、総合職に対して一般職は「財産」「性的行為」「夢」を「与えられる側」となった。
「夢に敗れた男・無神論者」こそが、女たちの盲目を利用して、社長退任劇を「問題の多いもの」にしていたのではないか?
フジテレビにも「教会」が必要なのかもしれないし、
世間では「10万円かかる」とされている「あなたは神に愛されている」という言葉を社内で言ってあげるのも福利厚生というものではないであろうか?
Only lonely boy
 

しかし、仮に「総合職」の男が医学情報を拡散させようと思ったら、一般職の人たちも「神に作られた作品」であることを認めざるを得ず、また、盲目な女子たちの支持を固めるためにも、「医学」=宗教というものは必要になってくる。
「短期的視野でしか考えない男」「盲目な女たち」を聖書は「悪だくみの座」と呼んでおり、彼らの支持がなければ、次期社長にはなれないことを意味していた。
そこで私は「バナナと牛乳」の話をさせていただいたのである。
詩篇89:11 天国はあなたのものである。地もあなたのものである。
これはつまり、「医学で画期的なことを考えたら(天国)、悪だくみの座(地)が丸く収まる」ことを意味した。

エズラは、「あなたが天国(医学)を作りなさい、地の主となるだろう」としている。

ヨハネ福音書1:1-4 始まりは世界であった。世界は神とともにあった。世界は神であった。彼は神とともにあった。すべての者たちは彼を通してあった。

これもつまりは「悪だくみの座」を「医学で治めろ」と言っている。

コロサイ1:15-16 彼(イエス)は見えない神の姿をしていた。すべての者たちに先立って彼は生まれ、のちに人々が生まれた。権力とは偉大なものだ。すべてが彼のために作られた。

これらは「バナナと牛乳、お薬」の効果の恐ろしさを「ひたすら讃えて」いるようにしか見えない。
フジテレビの横暴も「医学で治めろ」と港新社長は言われているようなものだ。

ニケーア325年で、「すべての力を凌ぐ父を信じます」とされた。
ニケーアコンスタンチノープル381年では、「天も地も、すべてが父のものです」とされた。
そこでは、「女たちが男の序列を決めている」という発想はなく、一般職の男たちや、盲目な女たちもまとめて「悪だくみの座は医学で治めるしかない」という見方が強かった。
女の子たちに恋をされ、自ら「選ばれることを選び」「努力をし」「シンプルなかたちで医学を伝える」
そんな世界が原始キリスト教だった。
しかし、「女」(ナンバーツー)が登場し、ナンバースリー(男)が登場したため、番組づくりが可能になった。
「父」(社長)のもとでみんな楽しもうよ?ということだろう。
「努力をする」過程でも「女子たちの笑顔に囲まれていなければ方法論は間違い」とも言われている。
見えるものと見えないものが「天国」(医学)にはあり、天国(医学)を磨くことは地に反射される。
これが「悪だくみの座」への対処法であった。

さて、私が述べた「社長退任劇」と医学(天国)の関係は、私(小野光太郎)から、従兄弟の小野剛(オッカムのウィリアム)に伝わり、株式会社DeNAでゲーム化されることになる。
社長が退任するたびに「悪だくみの座」に医学がもたらされるのである。
パジャマでドライブ

オッカムのウィリアムは、アヴィニョンで「ハウスアレスト」(引きこもり)を経験し、しかし、ミュンヘン(株式会社DeNA)では「水を得た魚」であった。
アクィナスの「粗探し」をしているうちに、それが「仕事」で活かされることを知ったのだ。
アクィナスに「敵が多かった」ように、自らも株式会社DeNAの重役を務めてみると敵が多いことを知った。
そこで、アクィナスの父に勝たなければオッカムのウィリアムは結婚できないことや、自らの敵を排除するためには「アクィナスの本」ほどうってつけの教科書はなかったのだ。
このことから「神学大全」は出来上がったし、フジテレビと株式会社DeNAがかなり近い存在となるのは明らかであった。
勇敢か勇敢ではないかは、「先が見通せる」「女との予定が先まで決まっている」かどうかの違いに過ぎなかった。
周囲のいう証言だったのだ。
これはオッカムのウィリアムの「発明」であるとされ、女の子たちとの予定をスケジュール帳にびっしり書き込み、自らの仕事では常に勇敢だったとされている。
さて、亀山社長の退任後にも「女との予定」のある男性社員が港浩一を支持していたし、たとえば家庭であったり、あるいは「自分を裏切らない妻」(良心)であったりの、条件が整わなければ、亀山社長とともに横暴のかぎりを尽くすであろう。
妻に裏切られたことがある、女との予定が「7月以降未定」というのがもっとも危険だ。
それは一概に「性格」とは言い切れないものがある。
それは中曽根康弘にとってのカミソリ後藤田を意味したし、男が「カミソリ」と言われるためには、「7月以降も女との予定を組んでいなければならない」それはつまり「自分の勝ちに賭ける」ようなものであった。
まあ、女子たちが勝敗を決めてしまうことも多いので、「バナナと牛乳」があれば、今回の一件はクリアーできるであろう。
さすがに「バナナと牛乳、お薬」で統合失調症が治るという理論には、高度な宗教的意義が認められ、批判的な者はほとんどいないであろうが、いかなる「社長退任劇」で争点となる「医学」つまり「悪だくみの座を封じ込める理論」に批判がないわけではない。
一旦様子見していた「盲目な女たち」からだんだん電話がかかってくるようになる。
背景には医学と確信があったが、そうなったらかなり安定的な地位の継承がなされるものと思われる。
皇位継承の三要件。
「皇位の安定的継承」「伝統に従うこと」「国民の支持」
まあ、港さんと石川さゆりが私の家を「訪問」した理由もこれ知り尽くしていたから、という側面がある。
さて、女たちは「神・男の完全性を語り合うと爽快感がある」ものである。
そこで、音楽シーンもコアターゲット層を標的に「こんな男性初めて見た」ということを歌うわけである。
まあ、「32歳で16歳のアイドルと結婚」などというモデルは、
周囲の嫉妬も尋常ではなく、
自ずと「女たち」が太陽の周りの惑星・電子として群がった。
Love train

基本的に「東大法学部」だからコアターゲット層の標的とした。
しかし、やがて女たちに「愛してるよ、と言ってくれる」ようになる(哲学を学ぶ)のを待った。
さらには地位の継承の際に用いる「医学」を学ぶのを待った。
令和天皇の「51歳」というのはほとんど驚異的な若さであった。
これが「コアターゲット層出身」の男の「完全性」でもあった。
もっとも、私は矢口真里と初めて会った時は「いじめのターゲット」に選ばれたが。
いつ「愛しているよ」というかを待っていたのだろう。
王子様と雪の夜

法律学を学ぶためには「孤独」が必要であった。
哲学を学ぶためには「周囲に女性たちが」必要であった。
医学を学ぶためには「芸能界」が必要であった。
私がコアターゲット層だった頃の大河ドラマ「宮本武蔵」においては私は「お前の剣術(法律学)などたかが知れておる」と言われている。
コアターゲット層だった頃の私は、喧嘩も強く、香取慎吾が苦笑いしていた。
「法律学」(こんな男性初めて見た)、哲学(愛している、と言ってくれる)を経て、地位の継承の際に用いる医学が熟すのを待った。
資金力も自ずとついてきた。
会社法を知らなければ、株式や社債を集めることもできないわけであり、芸能人女性は「恋バナ」に目を輝かせたが、根本的に病気を治すためには「バナナと牛乳」が必要であった。
モーニング娘。の加護亜依と亀井絵里が同時に私に恋をしたこともあった。
しかし「女の口説き文句」はお金であったものの、
彼女たちは「私の身体を医学の進化に用いてください、お医者さま」という気持ちがあったものと思われる。
「バナナと牛乳」は、医学的・宗教的な私からの「回答」であった。
Jokeにもならない恋

法律学を学んだために「役所の論理」にある程度強くなり、哲学を学んだために「資金の裏付け」を得るようになり、医学を学んだために「役所からも重んじられる」ようになる。
資金の裏付けだけで「地位の承継」は可能であるし、私もその段階だったと思うが、医学をやると「悪だくみの座」が沈黙することは今回のフジテレビの社長退任劇から学んだ。
法律学・哲学だけでも、ワールドカップの司令塔やオリンピックの名誉総裁は務まるが、自分の体調が悪化したら「いつも女子たちを笑顔にしてきたやり方」で医学書を紐解かなければならない。
自信はそれまでに培ってきたはずだ。
「一流の医者と見解が食い違ったことがある」などの経験、宗教界で敵がいなかった経験などが役に立つ。
可能性とチャンス、それらが勉強する力となり、「気持ちいいこと」に向かう。
フジテレビのオンエアと「面と向かっての握手」はまったく異なるものだ。
明石家さんまは「オンエア用」であり、小沢一郎は「握手するため」に存在した。
どちらもが「娘」を溺愛する憎めないおじさんであった。
本当に練られたテレビ局は、子供たちにいい影響を与える。
学校で勉強と部活をやって、ゴールデンでエネルギーをため、10時頃には、周囲の女たちが「あんあん」言ってるんだろうな、と思いながら勉強する。
場合によってはウォークマンを聴きながら勉強する。
「青春だ」
涙Girl

自然界で生き残った生き物を母親がスーパーで買ってきて食わせてくれる。
それを力に、自分も人間界で適者生存をする。
明石家さんまをテレビで見て、小沢一郎と一度は握手をするかも知れない。
それが「ダーウィン主義」であった。
ある意味、ナチズムであり、「遊び人」というのは大抵この立場に立脚している。
英国王室はダーウィン主義を嫌い、王家の息子の毛並みのよさを背景に人々を自由に遊ばせようとした。
可能性とチャンスは、「自分にもできる」ということを示すことにあった。
さらに、エネルギーは「女性芸能人が」与えてくれる。
その上で「気持ちいい方向に」自分の心を流す必要があった。
適当にテレビを見て、ウォークマンを聴きながら勉強し、学校では「昨日のテレビの話」をする。
「結婚、セックス、投票、酒」は、男性芸能人の鉄板ネタであったし、アンチエイジングつまり「鬱、認知症、トイレの失敗、骨折を避けること」は女性芸能人の鉄板ネタであった。
子供たちは「人気」を競い合っており、さらに「成績」を競い合っていた。
つまり、男たち・男の子たちが「成績」を競い合うかぎり社債というものは出せる。
これは、「スポンサーのみならず社債で」テレビ局が予算を持ってくることができることを意味した。
明確に「ダーウィン主義」を、格付け会社に説明する必要があるが、ムーディーズやスタンダード&プアーズでなければそれを見極める力はないとされている。
NHKしか見ない子供は案外、東大には届かないものだ。
フジテレビが明確に「ダーウィン主義」「男の子たちの競争」「適者生存」のために番組づくりをやっていると格付け会社に説明して、社債の裏付けを得て、番組編成予算を組まなければならない。

4630万円の誤送金に関してであるが、基本的に「振込」というものは「原因関係不顧慮」であるとされる。
まあ、オレオレ詐欺もそれで成り立っているわけであるが、「引き出し前に仮処分で押さえた」弁護士はかなりの強者として知られている。
まあ、世論の支持というのが司法の運用である以上、
メディアが騒げば逮捕せざる得ないが、
振込は「原因関係不顧慮」ということは明確に報じなければならない。

私が、法学・哲学・医学を修めた政治家(ディグナーガ)であるのであれば、YOSHIKIは、「愛している、と言ってくれる」アーティストであった。
「親密さとユニークさ」「こんな男初めて見た」「カップルを守ってくれる」「愛している、と言ってくれる」という要素がテレビには必要であり、政治家(ディグナーガ)と芸能人(ダルマキールティ)は、活動実態は異なれど、女子校(ジャイナ教)においては、ダルマキールティ(芸能人)の方が人気があったんじゃないかな。
政治家も「芸能界のお家の事情」を知らなければ、なかなか「首相に」というわけにはいかない。
ディグナーガ・ダルマキールティ学派が「オンエア」されるのである。
男の子(シク教)においてはディグナーガもダルマキールティも同じように人気があった。
日曜報道The Prime のように橋下徹(政治家)がテレビに出るのは好ましく、ディグナーガ・ダルマキールティ学派をメディアが構成しないかぎり「首相へ」とはならない。
逆に、芸能界が歓迎する政治家であるのならばどの政党であるかを問わず「首相へ」の道は開かれる。
「こんな男初めて見た」と言われる政治家と「愛してるよ、と言ってくれる」アーティストが共存していてもよく、衆参同日選のある年でも政治コミュニティには年3000億円しか流れておらず、当然、地上波でディグナーガ・ダルマキールティ学派が流すカネの方が大きかったのだ。
まあ、あくまでも「視聴者の女性たち」が財産なのであり、芸能人女性(株・公物)も「私有財産の否定」というかたちでそれに資する存在でなければならなかった。

基本的に、「法」というのは仏教用語であり「なんで知ってんの?あっち行ってよ」と言われるようなものだ。
龍樹は「欲しがるな、欲しがらなければお前はハイウェイスターだ」と中論において語り、議論する理由を明確にし、むやみに他人に議論を吹っかけないように戒めた。
つんくさんも「タイミング」を重視する人であったが、「国内の法が動く瞬間」を狙っていたとも言われ、
ラブマシーンは少なくとも私に合わせてリリースされている。
LOVEマシーン

三谷幸喜さんも「どの時代にもゲテモノ喰いはいる。偉いのは二匹目だ」と言っており、法を動かした最初の人物よりも「それが拡散していく過程が重要」としている。
今では鎌倉殿の13人の脚本を書いている。
「法」が動くと「こんな男性初めて見た」という女性たちも動く。
それは社会学と表現され、男たちも大乱闘になる。
女たちの「ルール変更」を公然と東大法学部は行う力量を持っていたし、それで女たちは「くだらない男を取り合いにならないようなルール」を持っていた。
Anytime smokin' cigarette

通常、どの企業も「トップダウンの影響力は案外弱い」とされているが、主婦層の「法」はトップダウンが下まで突き抜けてしまうことがあるし、医学は「悪だくみの座」を治めてしまうことがある。
仏教的トップダウンも、キリスト教的王位継承も使いこなす必要がある。
世論が沸騰した時に「仏教的トップダウン」を引き起こしたら(ディグナーガ)、アーティスト(ダルマキールティ)の側も動く。
女社会の再編に合わせて「新曲」をリリースするのだ。
女がルールを決め、男がカネの使い道を決める(法の支配・予算法律説)のもとでは、男がルールを上から下まで貫通させたら大変な騒ぎになる。
女社会のルールを「因果の鎖」と呼び、基本的に安室奈美恵のテーマでもあった。
世論が沸騰した時に、「タイミング」を形成する研究を法然上人(ブルーラビット)はやっていた(らしい)。
碧いうさぎ

また、今のままでは組織の頂点には立てないなと考えたブッダは、「イケメン・性欲・本」つまり、神・ブラフマン・道の三つの門から出た後にアヒンサー(出家・留学)をしている。
まあ、キリスト教的には「聖霊派」(カリスマ派)が仏教的トップダウンに近く、ペンテコステ派は、「革命」すら志向してしまう。
一方で、「福音派」というのは「テレビ局」であり、「愛を囁く」側である。
インドという国は、スクールカーストを克服した上で、男が「ちんちんのおもむくままに」学び(まんまんちゃん、あん)、ブッダのように「トップダウン」を下す世界最大の民主主義国家である。
むすこが、父親に話をしながら「トップダウンがを行うのは、父の輪廻を認めることを意味し、輪廻からの解脱を認めないことになるためそれは難しい。
ニーチェは、「父と子」の関係を「神は死んだ」と言ったが、夫と妻、ナンバーワンとナンバーツーの関係でも同様に「仕事を家庭に持ち込む」のは難しい。
「結婚、セックス、投票、酒」が男性芸能人の鉄板ネタであることから、男性芸能人はプライベートを仕事に活かすのであろうが、「日本人の法意識」(幾代通)は、法の学習に孤独を求めた。
12の「苦の連鎖」(12縁起)という観点からもアヒンサーというものは辛いものであり、涅槃とはどのようなものであるか?苦のない世界とはどのようなものであるかに日本国の仏教界は言葉を失った。
「ナンバースリー」(ヨン様)になって兄のお題にしたがったら死んでしまう!
冬のソナタ・テーマ

腐っても大卒(ブルジョワ・ニャーヤ)である。
どのような大学であれ、分かりやすく専門用語を提示したらあっという間に理解してしまうが大卒であった。
ところが、戦がなくなったらどのように生きたらいいのか?というプチブル(高卒)・プロレタリアート(中卒)のようなサムカーが「権力者になりたい」と考えるなら「サムカー」と呼ばれる階級であり、「涅槃」というものがそのまま「死」と直結してしまう。
ニルヴァーナ

男たちにとっても、女たちのルールがトップダウンに貫かれた記憶は快感でしかなかった。
まるで、射精の快感はみな同じと言わんばかりに「俺にもできる」と言い始めるものだから、仏教界の中枢は「涅槃は死に近い」として沈黙したのだ。
Many classic moments

フレーゲは、「ブッダは10万人の女を犯した」とし、基本的に「ドイツ法」に仏教は引き継がれたと言っていい。
ダルマキールティは、「芸能界とは貧困層のものだ、学歴などない」とし、
政治家と芸能人つまりディグナーガとダルマキールティは、ニャーヤとサムカーという階級の違いが認められるとした。
一方で、ディグナーガは10万人の女を貫いて、「こんな男性初めて見た」と言われてくれ、我々は「愛している、と言ってくれる」存在になろうとも言っている。
ゴータマは明らかに高学歴でありブルジョワ(ニャーヤ)であった。
王家の息子だったからだ。
しかし、入滅した時の姿を見て、龍樹は「エルサレムを尊敬しろ」と言っている。
ゴータマが左脇腹に痛みを抱えていて、「バナナと牛乳、お薬」さえあれば命が救えた、と考えたのだ。
龍樹は「バナナと牛乳」をナイヤイヤと言っていたが、日本語では「アレアレア」と言うようだ。
恋はタヒチでアレアレア

10万人の女を貫く法をダルマと呼ぶ。
仏教の教えのことだ。
伝説からの教えをカルマと呼ぶ。
東大法学部の教えも、一部の者は「ダルマ」を共有している。
講義はカルマに過ぎない。
10万人の女たちを貫いて「俺のソーセージはそんなにタフじゃねえ」と言って世の中にばら撒くのだから仏教というものも案外恐ろしい宗教だ。
いずれにせよ、東大法学部は「女を口説くという英米法」とは異なる、「女のルールを利用して一気に貫く」法原理機関の道を選択したのだ。
ドーベルマン窃盗に関しては、「主観的超過要素」の問題であり、女たちにしか理解できない、主婦層も問題視しない「違法性論」の問題であると思われる。
女たちの抑圧の問題であったり、「主観」というものが「女」を意味し、違法性論が純粋理性批判つまり「主婦層の支持」の研究であることから、「女とは何か?」を理解する上で極めて興味深い。
大谷實博士は「エキサイティング刑法」において、
「私はフェミニストではないとは言いませんが」としながら、大塚仁の「主観的超過要素は窃取概念に含まれている」つまり、「窃盗は窃盗だ」という立場に理解を示した。
思い出の銀の矢たち

さて、キリスト教における「バナナと牛乳、お薬」あるいは「女を口説く言葉」=お金という発想とは異なり、日本国の仏教界の「法」は、「人気のピラミッドをすべてぶち壊しにする」から嫌いだとも言われた。
しかし、高等教育で法学を学んだ者が多く、「そういう意味か」と意味が通じる豊かな土壌が育まれており、「東大法科世を照らせ」という古い人もいた。
インド哲学は今となっては「ヒンドゥー教」となっているが、それはアメリカ合衆国に心を開いてインドを核クラブに加えてもらおうという教えである、それは、「バナナと牛乳、お薬」によってブッダを長生きさせてやろうという発想や、女を口説く、さらには「法」によって10万人の女をマーケットに一気に解き放とうという発想を持ち、かなり豊かなものとなっている。
日本国も「中国の影響を受けたのか?インドの影響を受けたのか分からない」という現状もあるが、インド人女性の中にはX-JAPANのhideの墓参りをする人もおり、クリエイターの力は日本国の方が上のようだ。
Forever love

しかし、「言論の自由はインテリのためのもの」つまりニャーヤ(ブルジョワ)のためのものという発想を克服し、サムカー(プチブル・プロレタリアート)にも開放するのがスクールカーストをなくすためには必要であり、それがそのままインドの歴史を形成していた。
カースト制はそのまま「悪だくみの座」を作りがちであり、それならば医学によってそれを治めるキリスト教にもインドは心を開かざるを得なかった。
洋と漢という軸だけではなく、インドからも日本国は学ぶべきところが多いのは事実である。
アドヴァイタ・ヴェダンタというのがヒンドゥー教の経典であるが、日本国が国家として理解しておかなければカルト宗教に食い荒らされかねない。
人気のピラミッドを作っては「法」で壊し、何度も繰り返していくうちに、日本国の民度は世界最高峰レベルになるという見方もある。
ニーチェは「永劫回帰」(永遠の繰り返し)と呼んだが、ドイツ人の「仏教好き」はものすごいね。
ガンダーラ

オルテガ・イガゼットが「統合失調症は治る病気」として1960年に「バナナと牛乳、お薬」でそれを証明してから1960年代1970年代に南米で「女たちをセールスにかけて株式会社化を行いたい」という運動が起きた。
バナナシンジケートは右翼であったが、それがリベラルと結びつくのならばまるで自由民主党のような強い力を持つことになるからだ。
南米の軍事独裁政権やカトリック教会の独占物であるバナナシンジケートを、ソニーがデジタルデータのデッドコピー(Mora)だけで無料でバナナと交換でき、しかも、株式会社化が可能なほど「リベラルな思想」を広めることができるのならば、日本国は「より関わりやすく、しかも日本国にとって都合の良い交換条件を手にすることになる。
フレンズ

マチュピチュのような偏狭なナショナリズムが南米に存在した方が、アメリカ合衆国は、日本国よりも世界で夢が見れると考えるアメリカ人は多い。
バブルの頃からアメリカ人はマチュピチュが大好きであった。
南米の女性たちの「自由化」とともに日本国がバナナを無料で手にできるのだから、TPPというものも「日米が加入したらもはや原型をとどめない」とされる理由はあったし、日本国としてはそれを存分に謳歌しなければならない。
植民地主義・帝国主義・グローバル化・人種差別・性差別のすべてをなくすのが「ウォークマン」であったし、音楽作品のデジタルデータのデッドコピーであった。
搾取、貧しさ、権力との遠さ、フェティシズムなどと「音楽作品」は向き合わなければならない。
家庭内で聴く音楽作品は、「反哲学」であり、兄は妹を口説くわけではない。
マチュピチュのような「プレコロンブス」時代の偏狭なナショナリズムはもはや過去のものだ。
今は「ポストコロンブス」時代であり、ヨーロッパ・アメリカ合衆国・日本国が南米のバナナシンジケートをめぐって、
「株式会社化とともに有利な財の交換条件を模索している。
ボトムライン

「スペイン・ポルトガルに征服された」というのではなく、「新世界が開かれた」と考えるのが正解であり、それだけで、日本人の「50歳以上」が見えるようになるのだ。
この「TPPの活用法」つまり、ウォークマンと音楽作品のデッドコピーをばら撒くことでバナナシンジケートを掌握しようという発想を「フランシスコ・ザビエル方式」と呼びたい。
このような南米の民主化の動きに対して、マルクス主義が1973年にエルサルバドルなどで抵抗してきた歴史がある。
アメリカ合衆国が「南米のすべてが許せるわけではない」理由もここにある。
サルバドル

1976年からアメリカ合衆国は「ダーティーウォー」と呼ばれる戦闘状態に突入し、南米との関係が険悪なものとなった。
しかし、日本国は「音楽作品を提供したい、バナナが欲しい」というメッセージは明確なのである。
「音楽作品を聴くことそのものが金融工学である」というメッセージも明確にする必要がある。
キューバ革命はアメリカ合衆国にとっては最悪の悪夢であった。
令和天皇の「文字曼荼羅」をウォークマンの付録にしたら「マトリックス」と呼ばれてバカウケした。
「女って楽しい」というのはどの国でも経済発展のための秘訣であった。
それは、もはやかつてのアメリカ合衆国の「ダーティーウォー」とは異なるマルクス主義による抵抗も受けない「貿易」であった。
ウォークマンの付録の「マトリックス」は、政治的(女心の定義)・経済的(男が女を愛する)統制ではあったが、「バナナが欲しい」というメッセージは明確であったし、領土的野心などそもそもない。
日本国のおばあちゃんたちは「チェゲバラ」が大好きであったし、「アメリカのやり方」とは異なる方法を熟知していた。
コロンビアのチャベス大統領は、ソニーに目をつけるのが早く、早速「ポピュリズム」と言われ始めていた。
ここで、日本国の場合は「ダーティーウォー」ではなく、時の政権が「ポピュリズム」と批判されるだけであることが明らかになった。
「女の子は恋がしたい」(敗北の文学)は、世界で共通しているのか?
いちばん好きと言って

ここで、南米のポピュリズムは日本国が「発信」していたことから、ラテンX哲学と呼ばれている。
ジェネレーションX


「こんな男性初めて見た」
このことそのものが「親密でユニーク」「愛している、と言ってくれる」「カップルを守ってくれる」
という他の三つの要素からもたらされることがある。
まあ、そもそも「勉強しなければ」分からないものであり、この論点に「人気の秘密」が集約できるのならば他にいろいろなことを知っているであろう。
ライフサイクルは「コアターゲット層」だった時期に確立していた。
父と子・聖霊つまりかっちゃんと南とたっちゃんの関係も理解できるようになる。
案外、南としては「自分に最も強烈なスピンをかけてくれる」ラケット(たっちゃん)を求めていたのかもしれない。
女としては「その場を仕切りたい」と考えているだけであることが多い。
「女にスピンをかける」というのもおかしな表現だが、オンエアしてみれば分かる。
大切

まあ、この四つの要素(フジテレビの御誓文)にたどり着くのが大変だったのであり(私もフジテレビもであるが)、そこまでに至る紆余曲折が勉強だったのだ。
最後に「ごめん、愛してる」でもいいわけである。
男は本来、人を愛するほど弱くはないとされる。
それでも「愛してる」と言えることが必要だった。
Mr.Childrenの結論とも言えるものであり、男が女に向けて言うべき言葉を、とことん疲れるまで考えたら自然に言えた。
I love you

それは「ちんちんが何を感じるかを知っている」という意味でもあり、「結論が出る前に」言うべきことであった。
プロポーズ

ちんちんが「知性を求め」「快楽を求め」疲れ果て、それでも「結論が出る前に」愛している、と言ってくれる。
これが、幾多の名シーンを生み出してきた。
男は「結論が見えたらため息をつく」生き物である。
「女のため息はみっともない」と考える女性も多いだろうが、男にとっては「諦め」こそが「愛している」と言うタイミングなのかもしれない。
ため息をついて「ぶっ殺すぞ」と言った男は見たことがあるが、「愛している」と言っているのと同じような「男前」だと思った。
女は「愛の重さ」はしっかりと見ているよね。
ポイズンの退屈

本物のダーゲットは私なんだな、と女は考えるのだ。
トーストにため息を乗せて、とも言われる。
マンハッタンでプラックファスト

まるで、女子高生のために必死になるほど、彼氏が自分のために必死になった時に女は落ちるものだ。
安っぽい愛で女が動くわけがないだろ。
十戒

さて、「こんな男性初めて見た」「愛している、と言ってくれる」とはだいたいこのようなものであるが、この二つが揃ってようやく「男の中の男」が生まれるのであり、やがて「親密でユニーク」な存在となり、「彼氏にとっていい心のライバル」になってくれる。
さて、「法」がトップダウンで10万人の女たちを貫くものであるとしたが、「愛」は、地方から都会へボトムアップで女たちを突き上げるものである。

だいたい、「令和天皇の後継者になりたい」と言ったものは皆、「無職だった」「仕事がなかった」「働きたくなかった」ことから、
フジテレビが「仕事」を生み出してくれれば皇位は安定することが分かった。
簡単な内職のような作業でも、フジテレビが「やってくれ」と言うのならば工賃ではなくお給料となった。
バナナシンジケートおよび地上波の影響力が背景にあったものと思われる。
このような「フジテレビ型作業所」は、パリから始まり、ハイデルベルク、プラハ、ウイーンにまで広がった。
テレビのチャンネルはもちろんフジテレビに合わせていた。
まあ、内職といっても「バナナと牛乳」を食べてもうこと、あるいは、フジテレビの「女弁護士」「女性医療従事者」の「男の子になりたい」などの「女心」を語ってくれるだけでもよかった。
しかし、労働法上は「お給料」を支払うためには「事業所」が必要だったのであり、フジテレビの裾野の広さを見せつけるものであった。
だいたい「作業所」にいくような上級者はたいてい芸能人であるため、「親密でユニーク」「こんな男性初めて見た」「カップルを守ってくれる」「愛している、と言ってくれる」などと言うことは百も承知であった。
下の方に沈殿しているものを、うまく社会に攪拌してやるのもテレビ局の仕事であった。

結局、「戦争って何のためにするの?」と言われたら「妻を隣人の妻と交換するため」であり、
戦争で女たちが暗い気持ちになるのも理解できる。
杏里の「悲しみが止まらない」とB'zの「もう一度キスしたかった」などが同時に起きるからである。
しかし、「仕事って何のためにするの?と言われたら「女子たちの胸を大きくするため」であり、
そのためには電波の有限性を持つ地上波は「宗教以前の問題」であるとされ、
「仕事」と言うものもテレビ局を中心に構築されざるを得ない。
無条件幸福

10万人の女たちを貫く「法」とは、男社会で孤独に勉強するものだ。
それは、ナンバMG5のように「周囲から恐れられる」ものである。
10万人の女を拡散したら、誰だって道を譲るだろう。
一人の女が2万7千円だとしてもだ。
基本的に、5ちゃんねる掲示板にせよSNSにせよ「女を漁る目的で男は利用している」と割り切って、そのように「ルールづくり」がなされている。
それならば「ローカルルール」などを読んだところで女としては「うはっ!」と言うだけだ。
しかし、本当の「法」は10万人の女を貫くことができる。
山崎育三郎は、「テレビドラマの場合は30センチの距離でカメラに囁きかけるように」演じると発言しているが、なぜ彼に将来が見えたかと言うと10万人の女を貫いたからだ。
なぜ「法」を身につけることができるのかと言うと、胡散臭いムカつく先輩がいるからだ。
最高の先生の指導を受ければ簡単に倒すことができることを知る。
父の存在、姉の結婚、若い友人の死、ムカつく先輩、いろんな要素が揃って初めてディグナーガ(政治家)と言うものは生まれる。
好きな先輩

「法」で10万人の女たちを貫くためには「事案分析」が必要なのではないか?とも思われるが、それは、事案分析の力をつけたいのならば孤独では困るわけである。
しかし、女を口説くこと(哲学)と同時に身につくものであり、司法試験のような事案分析と、フジテレビのワイドショーの事案分析は「規模」が異なると考えなければならない。

「女」は財産であり、しかし「セックスされる存在」としてではなく、「社会で果たす役割」つまり「女らしさ」が広く知られる存在であり、そのことにより「文化」を形成していくものをいう。
セックスされる存在ならばオカマでも同じだからである。
そこで、「女を売る」という株式会社は「女の身体を売る」という意味ではなく「女らしさを売る」という意味であることが明らかになった。
レインボーピンク

女は、生物学的に「女性」であり、男は生物学的に「男性」であるということには、本来「男が依存する」ものであり、社会的文化的には、「男」でも「女らしさ」を拡散していく者はいる。

「先生、今回の伊豆の踊子には、いい人はいいね、というセリフがないんです」と吉永小百合さんが川端康成に言ったら、川端は驚いたような表情を浮かべた、とされる。
つまり、川端康成は、男でありながら「女らしさ」を社会に拡散させていたのだ。

女とは「生まれるもの、ではなく、なるもの」とも言われる、どのようなシチュエーションでセックスするか?などもすべて男が決めている。
もちろん思春期の鬱は「母の実践・美の探求・体のフィットネス」を追求するのにはちょうどいいが、必ず「神の見えざる手」(天皇)が「女の居場所」を定義している。
妖しいニュアンス

女は「月に一度、ホルモンバランスが不安定になるために機長さんにはなれない」とされたのが1970年代である。
1992年にタイム誌が、男と女の「右脳と左脳の違い」を報じた。
ジェンダーというのは「異なる身体にとらわれている」男女の存在を念頭に用いられる用語だ。
それは常に「神の見えざる手」(天皇)の失政を指摘するものであった。
あまりにも女が抑圧されているなどすると、必ず「ジェンダー差別」が問題になる。
ホルモンバランス・右脳と左脳の違いを越えて「社会に居場所がない」のならば問題にせざるを得ない。

女とは「なるもの」である。
生物学的には「女性」という。
本当に素敵な「女性」は自由に生きているみたい。
生物学と、社会的文化的なものをより合致させ、ジェンダー(身体へのとらわれ)をなくす必要がある。
女は株価に反映され、男は円(為替)に反映される。
株と為替の値動きは私も一応、見ながらやっている。
愛の炎

生後24時間で「力強さ」を見せるか「小さく、柔らかく、デリケート」さを見せるかなどでだいたい「現象学」(男と女は同じ数だけ存在する)というものを踏まえて、性別というものは決まる。
1960年代に「金持ちと結婚してお手伝いさん雇いたい」という第二の波もフェミニズムにはあったが、いろいろと問題が多く、あっという間に収束している。
高島忠夫の家のお手伝いさんが子を殺害したなどの事件などが背景にあったものと思われる。
女の子を「女」にする、そのための「情報」にフジテレビが満たされている、これが高く売れるわけであり、女に身体を売らせるわけではない。

さて、また原点に戻ろう。
「親密さとユニークさ」
「こんな男性初めて見た」
「カップル守ってくれる」
「愛している、と言ってくれる」

これがフジテレビの御誓文である。
女の子を「女」にする営みであった。

さて、文化人に「タバコを吸う人」が多い。
映画監督の市川崑(故人)がくわえタバコをするために前歯を抜いた話などが知られている。
しかし、坐禅で言う「数息感」(鼻呼吸)をしなければ、ちょっとした運動でも息が切れる。
私は、口呼吸から鼻呼吸に切り替えたら失神している。
エスタックイブなどを飲んで1週間ぐらいで切り替えるものを、1日でやると失神するのだ。
結果的にはうまくいくし、スタミナがつく。
まあ、今のご時世には「マスク」をしなければならないが、メガネをしている人は口呼吸をするとメガネが曇る。
坐禅をしたり、臨済宗・曹洞宗に寄付をしろとは言わないが、マラソン大会でトップになるかビリになるかの違いすら数息感にはある。
10万人の女たちを貫く「法」とは別に、「空手(くうしゅ)にて(中国から)帰る」と言った道元の宗教も参考にはなる。

それにしても、秋篠宮は「天皇陛下にこれだけのご迷惑をおかけして」皇嗣殿下を退位させられないわけがないだろ。

抱かれる側(セックス)と身体へのとらわれ(ジェンダー)を区別することに意味はあるのだろうか?
少なくとも、私は「抱かれる側」としてのセックスではなく、「女とは何か?」というジェンダーをコントロールしている。
女性としての身体は感情的であることと対立し、文化は勉強と対立し、男性的であることは、男らしくないことと対立する。
つまり、女性としての身体は、文化と男性的である存在によって落ち着くのであり、勉強しなければならない、あるいは男らしくないことに対して感情的な反応をする。
まあ、男性らしく勉強している男ならば、女は案外「素直に」なれたのである。
「抱かれる側」と「身体へのとらわれ」つまりセックスとジェンダーを「イコール」にすること(法律の優位)を目指してはいたが、性倒錯(法律の留保)を知らなければ芸能界は相手にできなかった。
この「女とは何か?を勉強している男性らしい男」がいなければ、
女は「身体へのとらわれ」(ジェンダー)の問題が解決せず、学業はもはやハチミツと化し、女は「天使にも悪魔にもなれない」つまり、株価を上昇させる天使にも、株価を下落させる悪魔にもなれないとされた。
天使か悪魔

セックスとジェンダーの研究をしている男に対して、女は「イコールロマンス」と呼ばれる感情を抱き、一番女として落ち着いていられる存在として「ダーリン」と呼んだ。
高校での勉強と、キャンパスでの研究の違いはここにあるのだ。
イコールロマンス

そこで、男性芸能人としては「こんな男性初めて見た」「愛している、と言ってくれる」という二つの要素に、「抱かれる側の女であること」(セックス)と、文化と研究によって定義するジェンダーを、「勉強してくれる男性らしい人」という可能性が模索できた。
スポンサーがついていて、しかも、オンエアしただけで視聴者の女が儲けた気持ちになるためにはセックスとジェンダーを「イコール」にする営みを行う必要があった。
そこで、セックスとジェンダーの違いを知り尽くした彼氏が「私」を忘れるというのは致命的であり、男の値段を外国為替(円)と言い、女の値段を株価という以上、株高・土地高・円高というトリプル高は、もはや中国女・インド女を安く買える以上、引き起こされないのではないか?とされている。
ガラスの上のブロークン


男性芸能人は「結婚、セックス、投票、酒」が鉄板ネタであり、女性芸能人はアンチエイジングつまり「鬱、認知症、トイレの失敗、骨折を避ける」話が鉄板ネタであった。
鬱を避けるというのも「将来の見通しの良さ」(前向きな子)を表現するものであり、認知症を避けるためには「体のフィットネス」を探求することであり、トイレの失敗は、坐禅でも組むのであろうか?
骨折を避けるというのは「トラブルを避ける」ということであろう。
女には男とは異なる「ネクロフィリア」(死体愛好症)があり、男よりも「トラブルが大好物」という側面があるが、あえてアンチエイジングを心がけなければならない。
ジェンダーというものは、女の抑圧も含めてかなり拡散力がある。
「上野千鶴子にケンカを学ぶ」と言った女性もいたが、抱かれる側としての女(セックス)と「女としての居心地の良さ・生きていきやすさ」(ジェンダー)は違うからな、というだけでかなりテレビでの好感度は良くなる。
「法」はトップダウンとして10万人の女を貫く。
「愛」はボトムアップとして下から女たちを貫く。
(ドラゴンフィッシュブロー)
「愛している、と言ってくれる」というのは時にため息とともにあり、時にはセックスとジェンダーの間にあり、さらに「こんな男性初めて見た」というのは「法」とともにあるとされる。
一方で、冠番組を持つような女性芸能人は「抱かれること」を諦めなければならない聖霊となってしまうことが指摘でき、「抱かれたくない女はいない」ということは時にメディアに話題を提供する(文春砲)。
一方で、男性芸能人になぜフライデーというものがあるのかは、男が禿げた時に本当だったと分かるようになるものである。
男は「恐怖」から禿げる。
「フライデーに髪を売った」「それしか売り物がない」というのもなんとも乙女チックなものである。

私有財産というのは通常「セックス」のことを意味するが、「どのようなプロセスを経て?」「どのように口説いたのか?」「見た目は?」を周囲に教えることをすべて網羅したものだ。
つまり「真似をすれば似たような女がセックスさせてくれる」ことから、「下から突き上げる愛」の一側面に位置付けられる。
綾瀬はるかがやらせてくれるのならば、10万人の女たちが巻き込まれることになる。

少なくとも、私のブログは「新垣結衣は確実に落ちる」クォリティは維持しているし、
私の見た目は「凡庸な中年のおじさん」である。
そうなるとフジテレビの都合としては「上から東大、下からスタンフォード大学」となることを意味する。
しかし、トップダウンというのは「女の子」には嫌われる。
主婦層には別の考えがあるであろうが。
it's a fight

そこで「女性芸能人の落とし方」を基本的に「公物管理」と呼ぶし、株価にも影響を与える。
松田聖子は、「彼は特別な男、私は特別な女」というキリスト教アリウス派の立場に立脚しているが、
「女は皆同じ」というアタナシウス派が正統とされている。
これがフジテレビで実現するのならば「アンテンドゥー」(フランス)と同じと言われている。
カフェテラスの独り言

熱愛報道、結婚報道をあまく見るコメンテーターはいない。
「どうやって?」が多くの男たちの私有財産に影響を与えるからである。
「女は皆同じ」という立場に立つのが小泉今日子であるが、「フラれた言い訳の版権」のみならず、彼の言葉のセールスで「ロゼのシェードを買ったの」などというブログも掲載される。
Today's girl

ラッセルは「上から」を主張し、フレーゲは「下から」を主張し、そのまま「右翼と左翼」に分かれてしまった。
平氏は「上から」であったし、源氏(頼朝)は「下から」であった。
しかし、頼朝は「毎晩これは辛い!」と言っている。
さらに、上からたまたま(宇宙から)来た統合失調症には、源氏はスタンフォード大学にしたがって「バナナと牛乳、お薬」で撃退する方法を考えた。
女子たちにとっても、男たちにとっても統合失調症は、問答無用で「上から」来た。
「上から」「下から」「右から」「左から」ぶつかれば何か真実は見つかるのだろうか?
テレビ局は「家族の調和を乱してはならない」という放送コードを持っているが、インターネット(ネット)は、テレビ局(グロス)に対して言いたい放題であった。
少なくとも「いじめ」をなくすことはできそうであるし、そもそもそのこと自体、キリスト教三位一体にとっては「革命」を意味した。
少女マンガは「プロポーズ」で終わるし、熱愛報道ならば「どうやって?」という版権を男が握る。
「医者です」「弁護士です」「革命家です」というのが合コンだとすると、革命は「難しい」とされている。
モンタージュ

ラッセルは、右翼的発言に「女の子」は飛びつきやすいが、基本的に、芸能人女性には通用しないとし、通常、女の子は「下から上に」発展段階を辿るとしながら、いつか「右翼」「法」「禿げた坊主」とは何かを分かってくれると思う、としている。
エレベーター

私たちの代表者、ソクラテスとして、綾瀬はるかの彼氏は「法廷」で「どのように落としたのか?」を証言しなければならない。
ソクラテスは「少年に胸をつけた」として法廷に出されているが、法廷から監獄に戻った後に、隣の「男」に「あなたのような知性が欲しい」(ソフィア)と言われて熱く抱擁をしている。
監獄の男は、懲役刑を受ければ「女日照り」が待っている。
しかし、ソフィアがあれば懲役刑もなければ犯罪も犯さない。
つまり、綾瀬はるかを落としたソクラテスは「女たちの奪い合い」になったのだ。
今までの彼氏は「11人」とされているが、「著作権」が問題になる前に、綾瀬はるかに優越感を味わいたい女に取られていたようだ。
フジテレビのドラマで「綺麗な女性芸能人」を見たら必ず「愛に巻き込まれる10万人の女」を意識しなければならず、「お仕事を一緒にした」だけではなく、「どうやって?」という著作権を得なければならない。
愛が止まらない

番組制作スタッフは、「女を美しく描く」のが仕事であったし、なぜならば、それは「ユニバーサル(普遍的)に」他の10万人の女たちを売ることを意味した。
「誰がやってもいい」「誰が国民の知的空間を作ってもいい」というのを純粋代表制というが、「ソクラテスが行った!」というような「報道」になるような話を「半代表制」という。
熊は「メス」を財産とみなして、縄張りを決めているとされている。
父親の縄張りを決めている「娘」をテディベアとも言う。
テディベアの頃

「著作権」「どうやって?」のない一神教は、破産(デフォルト)だけが待っている。
まあ、半代表制といっても最初は皆「運が良かった」という側面がある。
しかし、著作権を得て、周囲に10万人の女をばら撒いて、運の良さを「免除」してもらう必要がある。
「免除」を経なければ、「なんのために報道してやったんだ」という思いが抜けない。
とうとう国際派弁護士に「どうでもいい」と言われてしまったら、ワイドショー番組そのものがデフォルトを起こしかねない。

原始共産制→古代奴隷制→封建社会→資本主義社会→共産主義社会という経済(男が女を愛する気持ち)の発展段階があるとするのなら、松本人志が「どうやって女を口説いているか?」を明らかにした「遺書」の謎のセールスは正規雇用の高い壁を背景とした古代奴隷制が封建社会を志向して引き起こされたものであろう。
とにかく「昭和天皇が死んだら1から仕切り直し」だったのであり、令和天皇が去れば、また、経済は古代奴隷制のあたりをうろつくことになる。
月9ドラマ「元彼の遺言状」において、女性弁護士が、
「弁護士の前で嘘をつく依頼人の依頼は受けない」
「黒いものも白にする」
と言っていたが、弁護士としては「すべてを理解することはすべてを許すことである」という発想が求められる。
動機も「要証事実」とされ、このあたりを狙っていくのが今後の弁護士のあり方であろう。

それにしても、私の脇腹の「石」は、特に左側が「脇腹にナイフを抱えている」ような動画を記録しておいたが、見返してみると実に痛々しい。
いずれ学会などで公表したい。
また、歩くのが辛いのは脳腫瘍が原因であることがあり、熱い風呂に浸かって額から汗をかいたほうがいい。
まあ、少女マンガでいう「せむし」みたいなものであり、風呂に入れない、バナナと牛乳が食べれない「貧しい子」みたいになる。
あるいは「贅肉」を落とした後にも歩き辛ければ「ビタミンB12と鉄分不足」あるいはビタミンが全体的に不足しているとも言われる。
さらには「食べ物に混入しているもの」に疑惑を向けなければならない。
また、歳を取ったら自ら「施設に入る」などして安全を確保したり、適度なストイシズムを維持しなければならない。
痛みを止めるためには「意識レベルを下げる」という対処法を取るが、これは「転ぶ可能性が出てくる」ことを意味する。
まあ、「歩ける」ようになると「噂」の数も変わってくるため、バナナと牛乳、お風呂、ビタミン剤も自ずから生活でうまく回り始めるのだ。
Wake me up!

石によって脇腹が痛いとか、スプリンターやプロ野球選手などをやっていて「仕事に支障が出る」とそれはたちまち「死」と直結する。
頭を使っていればいい作家などは痛みは必ずしも死を意味しないが、私も「モルヒネと人工呼吸器」という末路は覚悟したことがある。
どうしても歩く速さで敵わない若者がいるのは「運動量と食べる量の違い」と言うしかない。
なお、ビタミン剤などは食事の消化を妨げないように食間(食事と食事の間)に摂取した方がいい。

さて、宗教改革において「ルター」(足利義満?)が知られている。
宗教改革とは「男改革」であり「二人の女が論評する限り飽きない」つまり「インフレは起きない」としたのだ。
久本雅美と柴田理恵などが考えられるが、もっと若い女性アイドルも起用できる。
二人の女が「葉巻を咥えてワニを捕まえたおじいさん」などを語り合う限り「男に飽きない」としたのだ。
二人の女が男を語り合うと飽きないというのは「時間への愛」(金利)の問題であり、その時間が「価値があれば」金利が上がるし、「どうでもよければ」金利は下がる。
これは日本銀行の「金利政策」「インフレ政策」に結論を委ねたいが、「飽きない時間」というものはこれほど日本経済に影響を与える。
天使の館

ルター派というのは「金利とインフレを司る」に尽きるものであり、それでも女たちがお金に興味をなくし、物価が上昇するような今日においてはいまだ有効な経済政策である。
また、ルターは「人間らしい瞬間のショット」(ヒューマニズム)の研究をしており、自由民主党のように本来「インフレ退治」を得意とする政党は、雇用対策を得意とする立憲民主党とは発想を変えて「二人の女が男を語り合うと飽きない」という原理を扱うべきだとされ、ヒューマニズム(男の人間らしい瞬間のショット)は、「ルター派にはほぼ無尽蔵にある」とされた。
つまり「男に飽きない」のである。
ルターは「女二人および視聴者を熱狂させる男は罪人」と批判され、神への逸脱ではなく「悪魔」と戦っていたと告白している(青年ルター)。
悪魔を憐れむ歌というのはルター派のことを意味し、インフレや金利を掌握したルター派、つまり「経済をコントロールしきった国はない」と言われる世界経済で、資本主義の病理面がコントロール可能とした大変な宗教であり、「女二人」の枠が熾烈化した。
悪魔を憐れむ歌

ルターは「95のテーゼ」を出しており、オンエアされるのは「偶然性が高い」(公務は受け身のもの)とし、あるいは、ナンバーワン男の論理(父)かナンバースリー男の論理(聖霊)かを語れば「ヒューマニズム(人間らしい瞬間のショット)は明らかになる」とした。
このことから多少の焦りはあったものの「キリスト教」(プロテスタント)として存続を決めた。
それはそのまま「神聖ローマ帝国」の存続でもあった。
ルターの偉さをあまく見てもらっては困る。
「新約聖書を書いた人」ではないか?
ルターは「俺もテレビに出たい」という男たちの「農奴戦争」「農奴の反乱」をも経験したが、「ひとつの帝国と二つの王国」を作ったとされている。
神聖ローマ帝国・フランス王国・イギリス王国のことであろうか?
インフレと金利のコントロールだけでこれだけの仕事ができた。
また、AKB総選挙の上位8名に「冠番組」を割り当てるという大胆な提案も行っていた。
何のために選抜メンバーになるかを明らかにし、その経済効果も「インフレ退治と金利のコントロールのため」としたのだ。
ルターは農奴の争いをアウグスブルクの和議で治めたり、「親愛なるドイツへの警告」さらには「安息日への反旗」などを記した。
また、「男らしさ」というのは「他の男と比べて」明らかになるものであり、それは「先生」の誕生を意味した。
そこで「バナナの牛乳」も当然、採用されることとなり、「神の法則」の一側面とされ、カトリックとは異なる「女二人」と経済政策が教義に加わることとなった。
彼女と私の事情

未婚の女たちは、男を語り合って「言葉」を作り出したし(悔い改め・失恋)、ドイツ語・フランス語・英語などはそのようにして女の子たちが作った。
文法さえ決めれば言葉は(始めから)あったのだ。
まあ、インフレ退治と金利政策が分かれば足利学校は卒業であったし、どうやったら女子たちは「男」に興味を持ってくれるのか?
どうやったら「夢中に」なれるのか?
が分かればいいのだ。
バナナと牛乳によって「タバコがやめられる」と言ったのはカトリックであったし、それでいて「プロテスタント」も縦横無尽に使いこなす必要があった。
バブル経済でみんなが何かに取り憑かれたようになったことを「バビロン捕囚」と呼んでいた。
また、ルターは「女二人の夢がぶつかり合って言葉が生まれている」とし、意思の自由とは「譲れない夜」のことであるとしている。
永遠に友達

詩篇73:22-23 神が乗り移ってきたら神の行きたいところに行こう。
私は汝の前では野獣にもなるし、汝とともにある。
だったら「VTR」は、男性アーティストの音楽作品の映像でいいのだろうか?と言われ、「Come undone」と語られた。
Come undone

私は、文化放送の「レコメン」での「坂道からの生電話」での口説き方を明らかにし、一時、日経平均株価を3万円台に乗せたことがあるが、それならば、坂道の「女二人」がひたすら、男性アーティストの音楽作品を語り合えば「再び3万円台」が見えてくる。
ローマ3:20男たちが女の子二人の話題になれば国の経済が良くなるのならば、国から罪はなくならないであろう。
ローマ9:20皇帝に会いたがっているお前は何者だ?
出エジプト記9:12主がファラオに力を与えたのではないか?
この「主」概念をめぐって、男たちが争えば、インフレ退治や金利だけでなく「円」(男)もコントロールできる可能性がある。
私も「アマテラス」(女心)を描いて「株価を上げる」という営みは行っていたが、「女二人が男を語り合う」つまり「はじめに言葉ありき」で株価を上げる手法は初めて行っている。
ルター派とはこのようなものかと思う。
女の値段が株価であったはずなのに、「男が株を上げる」という発想は本日明らかにした。

AKB総選挙は、カトリックマネーで選ぶしかないが、日本国経済は、プロテスタントでも動く。
どのメンバーが「バナナと牛乳」に気がつくかであり、松井珠理奈は「気持ちだけで動いている」と発言していた。
しかし、男が女二人の話題になり「株」を上げるのが、言葉の用法上も正解なのだろう。
選抜メンバーの話題になるのなら、と言って円も上がらざるを得ないだろう。
そもそも、日経平均株価が一方的に上がらない理由は「インフレ、失業率の増加、金利の上昇を恐れているから」であるとされている。
しかし、インフレと金利は「コントロール可能」としたのである。
あとは外国為替だね。
ルターに関しては以上であるが、ホッブスの描く王子や、英語を書いたライプニッツ、若者を描いたハイデガーに影響を与えた。
ルターを知らなければ、若さを無駄にするとされたのだ。

レッドカーペットのことを「チボリ」と言い、
芸能界に「バナナと牛乳」を広めることをカトリックという。
映画は「女性たちをもっとも美しく描く」ものであり、そこにみられる「病理面」を克服し、女性としての生き方を示し、南米やフィリピンから「版権」だけでバナナを買い取ろうというのが現在、日本国で進められているレッドカーペットである。
東京国際映画祭

だいたい「10種類のパターン」が学校や会社にはあるが、常に「私はよそ者ではない」ということを表現しなければならず、そのためには「視聴者を仲間として認めてくれる」テレビというものは、時には勉強や仕事よりも大事だとされた。
このあたりが「レッドカーペット」の存在理由であった。
東京大学が研究の発信源であり、「親密でユニーク」「こんな男性初めてみた」というキリストを信じない(反キリスト)立場を貫いて学校や会社で生きていけるのならばそれでいいが、動物の「トリマーの資格」なども結局は東京大学が決めているのだ。
美容院や床屋、エステなど「気持ちのいいこと」のすべてが東京大学の研究から来ている。
クーラー、掃除、洗濯までもだ。
そして「東大らしくない」男の子は女の子にモテないことにもなっている。
東大生ならば誰でものせる女もいるし、やがてそれが「就活」を通じて仕事になってしまうのだ。
「親密でユニーク」「こんな男性初めて見た」「カップルを守ってくれる」「愛している、と言ってくれる」
この四つに絞っても、レッドカーペットでは「あらゆる美をあらゆる虎が襲いかかる」「女性を最も美しく描く」ものであり、キリスト教と神道(アマテラス)は、日ユ同祖論という立場でテレビは運営できる。
ひとりぼっち

この「四つの要素」が揃えば、そもそも世の中で仕事ができるのである。
インターネット(ネット)からテレビ(グロス)に影響を与える立場を聖霊派と呼び、そこにはカリスマ派とペンテコステ派があった。
ペンテコステ派は「いじめのない楽園」(革命)を志向した。
福音派は、そもそもテレビ局そのものであった。
男の快楽は「単純かつメカニズムが予測できる」ものであるが、女はもっと複雑性を持つ。
それならば、「女」を売るのが株であるという基本を踏まえながらも、女二人で「男」を売るというのが株であるという発想の切り替えは行っても一向に構わない。
私も、ある意味「盲目な」側面があり、それをモーニング娘。や松浦亜弥が売ってくれたが、ダメ男に引っかかりやすい女というのはいつの時代にもいて、それを「女二人」が売ってくれるのならば、一向にダメ男でも構わないわけである。
ダメ男が「勘違い」を始めた時にメディアは「裏切られたぜ」というわけであるが、国の水準をしっかりと理解していれば問題はない。
ナビが壊れた王子様

若さには若さの影響力があり、年配者には年配者の影響力がある。
これを「やわらかい違法二元論」と呼ぶが、国全体の序列の存在(違法一元論)を理解せずに勘違いをし始めた若者はどこかで切られている。
女二人は「若い男の影響力」に発信力を与えることはできる。
しかし、近藤真彦を総理大臣にするわけにはいかない。
この「やわらかい違法二元論」と「違法一元論」は理解しておかなければならない。
首相公選制にしたところで、近藤真彦が総理大臣になれるわけではない。
「ダメ男でも女二人次第」という「こんな男性初めて見た」という発想は、「今が旬だね」「今だけ」と男性芸能人が言われる論理であり、「違法一元論には太刀打ちできないだろう」という予測のもとに成り立つものだ。
それならば「読んでいる本」を見れば分かる。
私は「法学教室」「ジュリスト」などを若い頃、読んでいたが、「女二人」が離れていくことは生涯にわたってなかった。
まあ、既婚者でも男女の友情は成り立つか?という問題があるが、女二人つまり「妻と女友達」という「女二人」がいなければ「発信力がない」わけであり、「成り立たなければ困る」という側面もある。
雨のコニーアイランド

まあ、高橋英樹とか梅宮辰夫などは「妻と娘」という「二人の女」を利用していた(いる)が、周囲の男たちの「ちんちんが興味あるもの」(形而上学)に依存していた。
政治の世界が「女心ってこんな感じ、結婚ってこんな感じ」ということを明らかにすればするほど得をしていたのだ。
「結婚、セックス、投票、酒」が男性芸能人の鉄板ネタならば、結婚、セックス、そしてこの二つを巧みに表現したものへの投票、さらに「金に酔わせてくれる」男などは、17世紀に「興味のない男はいない」(キャッチオール)とされた。
つまり、男が話題にする「女の話」のことを形而上学と呼ぶのだ。
ブッダのように私は死んだ

存在(若さを無駄にすること)と時間(年配者に同世代の女の子を取られること)の二つをハイデガーは明らかにした。
しかし、ヘーゲルは「存在と無」において、「たとえ有名であることをやめても(無)、音楽作品を聴く性欲があれば有名であること(存在)と同じ」とした。
愛の倫理社会

「ちんちんたち」と「ちんちんたちの興味あるもの」は異なったが、男社会で男が生き抜いていくためには「興味のない男はいない」とされた。
精子が出ない両刀遣いの男の子は「このままでは子孫が残せない」として17歳ごろに発病していた。
私は、「勉強」「研究」について述べているが、インターネット(ネット)やテレビ局(グロス)にいかにうまく溶け込むか?
という男たちの「階級」があるように、犬たちにも「人間社会にいかにうまく溶け込むか?」という階級がある。
まあ、坂上忍は「ワンちゃんたちの階級を上げる仕事」をしているのであるから方向性は間違ってはいない。
すべての犬は動物である。
しかし、すべての動物が犬であるわけではない。
人間社会にいかにうまく溶け込むかを「階級」としているのは犬だけである。
たとえ去勢されていても、女の子二人(メス二匹)が寄ってくるのだ。
若さを無駄にし(存在)、何をしたらいいのだろう(存在論)ということを考えた坂上忍が、「ワンちゃんたちの階級を上げるお仕事」に関心が向かうのも頷ける。
その時に、「人間社会に溶け込んだら女の子二人が寄ってくる」という教育の仕方を坂上忍が知らないわけがない。
このことを学習した人間社会は「競馬」「乗馬」など「馬」にもこの原理を当てはめた。
競馬とは「どの馬がもっとも人間社会に溶け込んでいるのか?」を当てるゲームである。
調教までこれを見にいく人もいる。
ネット社会、テレビ社会に溶け込んでいる人はモテる。
これは人間の論理であり、犬や馬が人間社会にどれほど溶け込んだかを階級としており、それをインターネットやテレビで語り合うフォーラムがあり、競馬新聞まであるということを理解しなければならない。
走れコータロー

タージマハールのような「白い」美女のためなら人間も犬も馬もここまでやるのか?ということをフジテレビは常に表現している。
テレビ局を舞台にした「最後から二番目の恋」などのドラマがある。
さらに、アリストテレスは「プロタイオウシアイ」(愛し合い)というものを「ネット社会・テレビ社会・人間社会にうまく溶け込んだものの特権」としていた。
勃起というものはそれを踏まえて起きる「現象」であった。
日本国の首都である東京に溶け込むのは、「3」という数字の意味も踏まえて、
「1」が2倍にもなってしまうものだ。
今日は、男2人女1人の旅が銀座が舞台になっていたね。
東京ロマンス

男が描く「男」(デディクト)と女が描く「男」(デレ)は異なるものだ。
ここで誤解してはならないのが「女が描く男」(デレ)になりきるのがネット社会・テレビ社会に溶け込むことを意味するとは考えてはならないということである。
デレになりきろうというのを「カッコいい」と考える男がいることを「悲劇の誕生」と呼ぶ。
宮崎駿は、「紅の豚」において、女が描く男になりきろうとした男を「飛べない豚」と呼んだ。
男女の権力闘争をここに見出すことができる。
吉永小百合も「アイスキュロスとソフォクレスに関する一考察」という論文でこの「悲劇」について語っている。
女が描く男を演じる浜田光夫では「ヌケない」と赤裸々に語っていたそうだ。
「やわらかい違法二元論」にせよ「違法一元論」にせよ「悲劇の誕生」にせよ、理解しなければ社長さんにはなれないし、ましてや首相や天皇にはなれない。
男が「女心」を見失うのを「メンタルを病む」と言い、政治家が「新しい理論」を提供することをフィジカルという。
本田圭佑は「フィジカル面での弱さ」を指摘し、日本国の政治家に苦言を呈した。
ハートの条件

さて、何度も原点に戻ろう。
「親密さとユニークさ」
「こんな男性初めて見た」
「カップルを守ってくれる」
「愛している、と言ってくれる」
これがフジテレビ御誓文である。

紅の豚の問題「悲劇の誕生」についてはこの歌でも触れてある。
恋のミスマッチ

キリスト教アタナシウス派(女は皆同じ)という立場が正統であり、
アリウス派(私は特別な女、彼は特別な男)という立場は異端とされている。
しかし、松田聖子はあえてアリウス派の立場に立脚し、あるいは「農業を営んでいる家庭出身者である女らしさ」(マルクス主義労農派)であるとも言われた。
アタナシウス派はそのまま講座派(ライン工)の家庭の出身であり、フラれた言い訳を山ほどつくった。
スウィートメモリーズ

アリウス派(労農派)の女らしい女、アタナシウス派(講座派)の普通の女、それはそれぞれが第一次産業、第二次産業を構成し、アダムスミスが「社会の歯車になった方が生産性が高い」と言ったことから、松浦亜弥は、フラれた女は金を持っている父親が資金力を見せつけてくることを指摘している。
元彼

フッサールは「特別な男」は右翼であり、「出会いと別れを繰り返す男」を左翼と呼んだ。
「法」が右翼で、「愛」が左翼だというのとなんだか似たような論法ではあるが。
出会いと別れを繰り返す男には「絶対」というものが欠けていた。
「悲しみなんて自分1人で癒すものさ」という失恋した言い訳を考えた渡辺美里に対して、
西武球場は容赦なく「大雨」を降らせた。
「男を語り合うと気温が下がる」というのと何か関係があるのだろう。
My revolution

第三次産業においては「女」を「私有財産」とみなし、そこではもはやマルクス主義の「二種類の女」を自在に加工できるようになっていた(夢工場)。
本当に第三次産業が日本国で成立したのは「夕やけニャンニャン」においてであるとされている。

「彼は特別な男、私は特別な女」とした右翼思想の方が「シンプル」だとも言われる。

「女は皆同じ」とした左翼思想は「漁り漁られ」が横行し、上から女性たちを突き抜ける「法」と下から突き上げる「愛」の双方を使いこなすのはかなり難しい。
私は、バリバリの右翼少年であったが、本郷進学と同時に、左翼に転向し、CoCoのコンサートなどに出入りしていた。
シンプルな世界から、複雑な世界に入門した格好となった。
バリバリの右翼として知られた私が、Bomb!などに投稿を始めたら、かつての伝説を知る関係者がショックを受けたようだ。
それは、私が社会において落伍者になったことを意味した。
シンプルな世界の出身者が、複雑な世界で通用するわけないのに、という思いがあったのだろう。
また、右翼の世界はかなり個人主義的であり、左翼の世界は隣の人を「オタク」と呼ぶオタクカルチャーと呼ばれる。
そのような世界への適応は私にはほぼ困難であったし、それでも「権力から遠い側」がリリースする音楽作品は今では貴重な金融の才能となっている。
私の、右翼から左翼への転落がなければ、精神病院にも「居場所はない」という状態であったであろう。
家庭内でも、右翼から左翼への転落は「政権」を失うことを意味し、それでも、これがなければ「人間社会の複雑さ」を知ることはなかったであろう。
政財官から必要とされる才能は政権を失ったことから培われていた。
右翼の「強み」を活かして、複雑な世界(左翼)のブロックを一から積み上げる作業はどの学者も経験したことがなく、下手に大学院などに進学するよりは勉強になった。
しかし、「オタクの世界で有名」と言われるようになるまで「20年」の歳月を費やした。
東大法学部の「法」とスタンフォード大学の「愛」の双方をマスターしなければ天皇になれないことも知った。
妖精物語
 
本郷進学の1992年には、アイドル冬の時代が訪れており「ライブイベントから人が消えた」とされており、1996年には「マンスフィールドが日本国のアイドルを完全に潰し切った」とされている。
私に与えられた「研究期間」もこの「4年間」に限定され、しかし、多くのものを得た。
私は、松田聖子とか中森明菜とかおニャン子クラブなどは「人並みに」聴いていたに過ぎず、主に研究したのが松下政経塾による「塾系アイドル」てあった。
松下政経塾にも出入りしたがピンと来ずに関わるのをやめた。
まあ、周囲が「社会人」と称して、私を落伍者と見做したのは辛かった。
「法」と「愛」をよりシンプルに右翼的に語りたいという思いしか今はない。

腰の治療に関する話をさせていただいたが、最終的に「スクワットをする能力は、共感能力を高めるのがいちばんいい」いうことが明らかになっている。
環境が変われば聴く音楽を変えなければならないこともある。
プリティドール

立っている時は骨盤は「内側に向かって」圧力がかかっている。
座っている時は骨盤は「外側に向かって」圧力がかかっている。
立ち上がるの辛い人は、外から内へという圧力の違いを「音楽作品を聞いてよく理解しなければならない。
つまりは「セックス音楽」への共感能力を高めるのである。
セックスへの「ドキドキ感」の調整が必要なのだ。
また、メディアを用いなければエネルギッシュなアスリートにはなれない。
スポーツの世界に番狂わせはなかなかない。
ラブシャレード

幻聴というのは「心臓の音」に合わせて引き起こされるものだ。
幻聴のために「立てなくなる」人はいるが、そうではないメッセージは「セックスからできるだけ本人を引き離そう」として立てなくしている。
このあたりは「気持ちの作り方」次第であろう。
ヒンズー教というのは呼吸とスピリット(音楽作品)に命を見出す宗教であるが、ガンディーは、スクワットによって「カント(享年51歳)」よりも長生きを決めている。
そもそも「石」は、アダムのリンゴ(のど)を陥落させて発狂させるのが悲願だったはずだ。
それは、北極星を目指してナイル川を下ったニコマコス倫理学の記述そのものであり、この戦いを優勢に進めたら、最後に平氏は、わずかな残党で「北」を目指し始める。
「北枕」が好ましくない理由もこの辺りにあるのであろう。
いずれにせよ、私は残されたわずかな平氏の残党が陥落するのを待った。
倫理学そのものが「源平の合戦」であったことを知り、次回のテーマが「倫理学」となるのは当然であった。
倫理学とは「楽しいこと」「セックス」あるいは「幸福への関心」とも言われるが、辞書には「道徳(多数派工作)および規律(独身者の論理)」と記されている。
まあ、「メンタルな病気の治し方」を意味するものと思われる。





石原伸晃に1票を。